何を学ぶ
哲学とは、単なる事実の研究にとどまらず、事実を踏まえつつ、社会に新たな価値観を提案する営みである。このような哲学の役割は、コロナ禍にあってより重要になっている。

出口 康夫(でぐち やすお)先生
京都大学/大学院文学研究科研究科長、哲学専修/教授
1962年、大阪市生まれ。京都大学文学部卒。ロンドン大(LSE)留学。専門は数理哲学・分析アジア哲学。「溺」愛犬家。著書に『What Can't Be Said』(共著)、『AI親友論』などがある。また京都大学オンライン講義「立ち止まって、考える」も主導。
FAQ*哲学版
僕は仕事柄、哲学にまつわる質問を受けることが多い。以下では、それらの質問の中から、皆さんも抱いていそうな素朴なギモンを取り上げて、お答えしていくことにしよう。
Q1: 哲学って単なる自分探し?
以前、「自分探し」という言葉がはやった。社会での居場所を見つけられない若者が、「自分とは、自分らしさとは何か」を問いつつ試行錯誤を繰り返す。その姿が「自分探し」と呼ばれた。この言葉は、「自己の殻に閉じこもり、社会性を欠いた青年の頭でっかちの悩み」というマイナスのイメージを帯びていた。自分探しという問題設定そのものが、個人の自己満足に終始した、社会的にはトリビアル**なものにすぎないと批判されたわけである。
どうやら哲学でも、「自分とは何か」が大問題のようだ。すると批判の矛先が今度は哲学に向けられる。─結局、哲学者って、大の大人ならば早々に卒業すべき問題に、いつまでもこだわっている「こじらせ親爺」なんじゃないの? 社会的には大した意味もない問題について、あれこれ屁理屈を並べて、単なる個人の思い込みを言い合っているだけよ。
たしかに、「自己」や「私」は哲学にとって大問題だ。たとえば、デカルトは、(「目の前にリンゴがある」ではなく)「私はいまリンゴの視覚像を抱いている」という自己についての知(「自己知」)こそが絶対確実な知だと考え、それを全ての知識の究極の根拠にしようとした。またウィトゲンシュタインは、「この世に存在するのは僕だけで、あとは一切合財(いっさいがっさい)が幻だ」という、「独我論」と呼ばれる途方もない主張と、真剣なバトルを繰り広げた。かく言う僕も、一人称単数の「私」ではなく複数の「我々」を自己と見なす「我々としての自己」という新たな自己観を展開している。やっぱ、哲学者には、(自己にこだわるという意味で)“「自分」大好き人間”が多いのだ。
だがここで重要なのは、哲学とは、個人の私的領域に閉じた営みではなく、優れて公共的な営みだということだ。たしかに、哲学も含め、多くのアイディアは、はじめは、個人の思いつきとして出発する。でも、いつまでたっても当人にしか理解できない考えや、仲間内でしか通用しない主張は哲学とは呼べない。哲学とは、誰もがそれについて語ったり、理解したり、議論しあえるもの、社会に広く共有される知的公共財でなければならないのである。
一定の知的公共財がなければ、僕らの社会そのものが立ち行かない。たとえば、人権や自由という考えは、この社会では広く共有されている。もちろん単にそれらを口にするだけでは、人権や自由の侵害はなくならない。けれども、「人権」という言葉すらない社会では、人身売買のような人権侵害が当然のこととしてまかり通っている。蛇口をひねれば出てくる水道水のように、人権や自由は当たり前の考えになっているので、僕らはそのありがたみになかなか気づかない。けれどもそれらは、社会が暴力と不正の巷(ちまた)に陥ることを防ぐストッパーの役割を果たしている。それらは、僕らの社会を下支えする知的インフラなのである。
人権や自由という概念は、もともと、その辺にゴロンと転がっていたわけではない。それらは、誰かが考え出し、いろんな人たちが議論を重ねることで、一定の洗練された意味を与えられて、社会に定着してきたものなのである。このように、何らかのアイディアを生み出し、鍛え上げていく共同作業こそが哲学にほかならない。
同じことは「自己」についても言える。「自己」とは、自分の生き方、他人との付き合い方、社会のあり方を支える基本的な概念だ。お互い切磋琢磨することで新たな自己観を生み出し、そのことで新たな生き方、社会の作り方を広く社会に提案する。このように哲学とは、社会の基盤となる「価値観」という知的インフラを整備する知的公共事業なのだ。だからこそ、仲間内でしか通用しない私的な考えは、哲学と呼ぶに値しないのだ。
哲学は、社会性を欠いた、単なる個人の思い込みではないし、社会的にトリビアルな営みでもない。知のインフラを作り出し、それぞれの時代に合わせてメンテナンスを重ね、よりよい社会を築くために次の世代に継承していく。それこそが、哲学者が果たすべき社会貢献なのである。
どうやら哲学でも、「自分とは何か」が大問題のようだ。すると批判の矛先が今度は哲学に向けられる。─結局、哲学者って、大の大人ならば早々に卒業すべき問題に、いつまでもこだわっている「こじらせ親爺」なんじゃないの? 社会的には大した意味もない問題について、あれこれ屁理屈を並べて、単なる個人の思い込みを言い合っているだけよ。
たしかに、「自己」や「私」は哲学にとって大問題だ。たとえば、デカルトは、(「目の前にリンゴがある」ではなく)「私はいまリンゴの視覚像を抱いている」という自己についての知(「自己知」)こそが絶対確実な知だと考え、それを全ての知識の究極の根拠にしようとした。またウィトゲンシュタインは、「この世に存在するのは僕だけで、あとは一切合財(いっさいがっさい)が幻だ」という、「独我論」と呼ばれる途方もない主張と、真剣なバトルを繰り広げた。かく言う僕も、一人称単数の「私」ではなく複数の「我々」を自己と見なす「我々としての自己」という新たな自己観を展開している。やっぱ、哲学者には、(自己にこだわるという意味で)“「自分」大好き人間”が多いのだ。
だがここで重要なのは、哲学とは、個人の私的領域に閉じた営みではなく、優れて公共的な営みだということだ。たしかに、哲学も含め、多くのアイディアは、はじめは、個人の思いつきとして出発する。でも、いつまでたっても当人にしか理解できない考えや、仲間内でしか通用しない主張は哲学とは呼べない。哲学とは、誰もがそれについて語ったり、理解したり、議論しあえるもの、社会に広く共有される知的公共財でなければならないのである。
一定の知的公共財がなければ、僕らの社会そのものが立ち行かない。たとえば、人権や自由という考えは、この社会では広く共有されている。もちろん単にそれらを口にするだけでは、人権や自由の侵害はなくならない。けれども、「人権」という言葉すらない社会では、人身売買のような人権侵害が当然のこととしてまかり通っている。蛇口をひねれば出てくる水道水のように、人権や自由は当たり前の考えになっているので、僕らはそのありがたみになかなか気づかない。けれどもそれらは、社会が暴力と不正の巷(ちまた)に陥ることを防ぐストッパーの役割を果たしている。それらは、僕らの社会を下支えする知的インフラなのである。
人権や自由という概念は、もともと、その辺にゴロンと転がっていたわけではない。それらは、誰かが考え出し、いろんな人たちが議論を重ねることで、一定の洗練された意味を与えられて、社会に定着してきたものなのである。このように、何らかのアイディアを生み出し、鍛え上げていく共同作業こそが哲学にほかならない。
同じことは「自己」についても言える。「自己」とは、自分の生き方、他人との付き合い方、社会のあり方を支える基本的な概念だ。お互い切磋琢磨することで新たな自己観を生み出し、そのことで新たな生き方、社会の作り方を広く社会に提案する。このように哲学とは、社会の基盤となる「価値観」という知的インフラを整備する知的公共事業なのだ。だからこそ、仲間内でしか通用しない私的な考えは、哲学と呼ぶに値しないのだ。
哲学は、社会性を欠いた、単なる個人の思い込みではないし、社会的にトリビアルな営みでもない。知のインフラを作り出し、それぞれの時代に合わせてメンテナンスを重ね、よりよい社会を築くために次の世代に継承していく。それこそが、哲学者が果たすべき社会貢献なのである。
Q2: 科学とどこが違うの?
哲学は古代ギリシャで「知を愛する」営みとしてはじまった。この場合の「知」には、自然界についての知、人間や社会についての知も含まれる。つまり現在の物理学や心理学や社会学も、昔は哲学の一部だったのだ。逆に言えば、実験や観察、さらには現象の数学的な記述や分析という新たな研究のツールが開発されるにつれて、さまざまな科学が哲学から巣立っていったことになる。
では科学の登場とともに、哲学はその歴史的役割を終えつつあるのか? たとえば、人間の意識とか精神活動といった、現在の科学の手にあまるトピックに関しては、哲学者はまだ発言権を有しているように見える。でも、それも時間の問題。脳科学の発展とともに、そういった哲学の最後の砦も、そのうち科学の手に落ちて、哲学者は「オマンマの食い上げ」となるのだろうか?
僕はそうは思わない。科学がいかに発展しても、哲学には「メタ知」と「領域横断知」という二つの役割が残り続けると考えるからだ。
では「メタ知」とは何か。たとえば、先に触れた脳科学。そこで用いられている方法や前提は妥当なものか? 脳を研究することで、本当に人の心がわかるのか? そもそも心と脳の関係とは何か? 脳についてのさまざまな疑問には脳科学者が答えてくれる。でもこういった脳科学についての問題は、いくら脳をいじくりまわしても解けない。それらの問題には「妥当性」や「心」といった概念を分析したり、それらに新たな意味を与えたりという、昔ながらの哲学の手法で立ち向かうしかない。つまり脳という対象でなく、脳についての科学についての問題に関しては哲学者の出番が残っているのだ。
このような、科学を巡る知的営みを、ここでは「メタ知」と呼んでおこう(ちなみに「メタ」とは「…について」を意味するギリシャ語である)。いかに科学が進展しようとも、科学について考えるメタ知としての哲学の役割は残るのである。
お次は「領域横断知」だ。実は、この世には物理学者なんて、もういない。現代では、物理学は素粒子物理や物性物理など多種多様な領域に分かれている。その結果、一人で、物理学の全ての領域をカバーすることは、事実上、不可能になっているからだ。同じことはほかの領域でも言える。科学が発展すればするほど、知の細分化は進んでいくことになる。とはいえ、現代の社会が抱えているさまざまな課題に取り組むためには、個々の専門の垣根を超えた見通しのよい知、即ち「領域横断知」が必要となる。このような領域横断知の担い手は、もはや「個別領域の専門家」としての科学者ではありえない。複数の領域にまたがった見通しのよい概念見取り図を描くのは、やはり哲学者の仕事なのだ。
結局、いかに科学が進化しようとも、メタ知と領域横断知としての哲学は健在である。人類が存在する限り、哲学は永久に不滅なのだ。
では科学の登場とともに、哲学はその歴史的役割を終えつつあるのか? たとえば、人間の意識とか精神活動といった、現在の科学の手にあまるトピックに関しては、哲学者はまだ発言権を有しているように見える。でも、それも時間の問題。脳科学の発展とともに、そういった哲学の最後の砦も、そのうち科学の手に落ちて、哲学者は「オマンマの食い上げ」となるのだろうか?
僕はそうは思わない。科学がいかに発展しても、哲学には「メタ知」と「領域横断知」という二つの役割が残り続けると考えるからだ。
では「メタ知」とは何か。たとえば、先に触れた脳科学。そこで用いられている方法や前提は妥当なものか? 脳を研究することで、本当に人の心がわかるのか? そもそも心と脳の関係とは何か? 脳についてのさまざまな疑問には脳科学者が答えてくれる。でもこういった脳科学についての問題は、いくら脳をいじくりまわしても解けない。それらの問題には「妥当性」や「心」といった概念を分析したり、それらに新たな意味を与えたりという、昔ながらの哲学の手法で立ち向かうしかない。つまり脳という対象でなく、脳についての科学についての問題に関しては哲学者の出番が残っているのだ。
このような、科学を巡る知的営みを、ここでは「メタ知」と呼んでおこう(ちなみに「メタ」とは「…について」を意味するギリシャ語である)。いかに科学が進展しようとも、科学について考えるメタ知としての哲学の役割は残るのである。
お次は「領域横断知」だ。実は、この世には物理学者なんて、もういない。現代では、物理学は素粒子物理や物性物理など多種多様な領域に分かれている。その結果、一人で、物理学の全ての領域をカバーすることは、事実上、不可能になっているからだ。同じことはほかの領域でも言える。科学が発展すればするほど、知の細分化は進んでいくことになる。とはいえ、現代の社会が抱えているさまざまな課題に取り組むためには、個々の専門の垣根を超えた見通しのよい知、即ち「領域横断知」が必要となる。このような領域横断知の担い手は、もはや「個別領域の専門家」としての科学者ではありえない。複数の領域にまたがった見通しのよい概念見取り図を描くのは、やはり哲学者の仕事なのだ。
結局、いかに科学が進化しようとも、メタ知と領域横断知としての哲学は健在である。人類が存在する限り、哲学は永久に不滅なのだ。
Q3:哲学者って何でも屋?
もちろん、そうではない。哲学も専門分化の波にさらされている。哲学の専門には、何を研究するかに応じて二通りの分け方がある。一つは、過去の古典的な哲学者を研究するケース。この場合、たとえばデカルト研究、カント研究等々という分類が成り立つ。もう一つは、研究対象として何らかのテーマを設定する場合。たとえば、「何がどのように存在しているのか」を問う存在論、認識を扱う認識論、言語について考える言語哲学等々の分け方がある。
でも、細分化された個々の領域に閉じこもらないのが哲学の醍醐味だったはず。哲学者は専門ばかになってはいけない。なので僕らは、複数の専門を持つように心がけている。
でも、細分化された個々の領域に閉じこもらないのが哲学の醍醐味だったはず。哲学者は専門ばかになってはいけない。なので僕らは、複数の専門を持つように心がけている。
Q4: 哲学科では何をするの?
「人は哲学を学ぶことはできない、哲学することを学びうるのみである」。これはカントの有名な言葉だ。哲学とは、徹底的に自分の頭で考えること。過去の思想に取り組む場合でも、それに対して批判的な態度を取らねばならない。
まずはテキストをじっくり読み、そこで展開されている議論を自分で再構成し批判的に吟味する。次に、その検討結果を人前で発表し、議論を通じて練り上げ、卒業論文としてまとめあげる。これが哲学する術を身につけるやり方だ。この場合、外国語で書かれたテキストをキッチリ読みこなす語学力、議論を組み上げて行く論理的構築力が要求される。哲学科でやることは、語学力と論理的構築力の涵養に尽きるのである。
まずはテキストをじっくり読み、そこで展開されている議論を自分で再構成し批判的に吟味する。次に、その検討結果を人前で発表し、議論を通じて練り上げ、卒業論文としてまとめあげる。これが哲学する術を身につけるやり方だ。この場合、外国語で書かれたテキストをキッチリ読みこなす語学力、議論を組み上げて行く論理的構築力が要求される。哲学科でやることは、語学力と論理的構築力の涵養に尽きるのである。
Q5: 戦争を止められる?
コロナ禍が終わったと安堵する暇もなく、僕らは再び戦争の時代に突入してしまっている。では哲学は戦争を止めることができるのか。残念ながら答えはノーだ。だが哲学は、躍起になって論争している人びとの言い分を冷静に分析し、絶対に正しい人は誰もいないことを明らかにすることはできる。そのことで「自分だけが正しく、誤っているのは相手だ」という思い込みが間違っていることを示すのも哲学の重要な役目だ。このような地道な作業を重ね、将来の戦争の芽を摘むことで、哲学もまた世界平和に貢献できるのである。
*FAQ:Frequently Asked Questions(よくある質問)。 **トリビアル:ささいな、取るに足らない。
