何を学ぶ
人文・社会科学から自然科学までを含む幅広い学問領域の基礎を学びつつ、自らの専門分野を極めてゆく総合的学問。欧米発祥の「リベラル・アーツ(自由学芸)」に起源を持つ。
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草野 大希(くさの ひろき)先生
埼玉大学/教養学部/教授
1974年生まれ。上智大学より博士(国際関係論)号取得。米国コロンビア大学客員研究員等を歴任。専門は国際政治学・国際関係論。著書『アメリカの介入政策と米州秩序―複雑システムとしての国際政治』(東信堂)。共編著『国際関係論入門』(ミネルヴァ書房)。
全国に広がる「教養」系学部
全国には、国公私立を問わず「教養」を学部名に含む大学がいくつもある。代表例としては東京大学(1949年設置)、国際基督教大学(1953年設置)、埼玉大学(1965年設置)に設置された半世紀以上の歴史を持つ「教養学部」がある。21世紀には、国際教養大学(2004年)、早稲田大学の国際教養学部(2004年)、上智大学の国際教養学部(比較文化学部の改組。2006年)、法政大学のグローバル教養学部(2008年)、千葉大学の国際教養学部(2016年)、横浜市立大学の国際教養学部(2019年)など「教養」を冠した大学や学部の設置が相次いだ。教養学の人気の高さを物語るものと言えよう。
では、「教養」とはいったい何であり、それはどのような「学問」を構成しているのであろうか。それをベースにした教養学部では何を学び、それを学んだ学生はどんな将来を描くことができるのであろうか。
では、「教養」とはいったい何であり、それはどのような「学問」を構成しているのであろうか。それをベースにした教養学部では何を学び、それを学んだ学生はどんな将来を描くことができるのであろうか。
「教養のある人」とは?
まず、皆さんがイメージする「教養のある人」とは、どんな人であろうか。日々、試験に追われている皆さんにとっては、勉強のできる人や偏差値の高い人(=知識の多い人)が真っ先に思い浮かぶかもしれない。
たしかに、豊富な知識は、「教養のある人」にとって不可欠な条件である。しかし、それだけでは真に「教養のある人」とは言えない。たとえば、2008年秋に発生したリーマン・ショック(世界金融危機)では、高度な金融知識を持った一部の高学歴エリートたちの行いが世界中から批判された。豊富な知識を駆使して、詐欺まがいの金融商品を売りつけたり、貪欲なマネーゲームに興じたりして世界経済を混乱に陥らせた責任が問われたのである。つまり、彼らには、金融知識はあっても、行き過ぎた自己利益の追求を抑制するような社会的責任感や倫理感が欠如していた。
この例が示しているように、「教養のある人」には、知識が豊富であることに加え、品性や品格といった徳性をも身につけていることが求められる。簡単にいえば、「知」と「徳」の両面を兼ね備えていることが教養人の条件である。さらに、知識についても、特定分野に偏らない、さまざまな分野にわたる幅広い知識を持っていることが望ましい。
たしかに、豊富な知識は、「教養のある人」にとって不可欠な条件である。しかし、それだけでは真に「教養のある人」とは言えない。たとえば、2008年秋に発生したリーマン・ショック(世界金融危機)では、高度な金融知識を持った一部の高学歴エリートたちの行いが世界中から批判された。豊富な知識を駆使して、詐欺まがいの金融商品を売りつけたり、貪欲なマネーゲームに興じたりして世界経済を混乱に陥らせた責任が問われたのである。つまり、彼らには、金融知識はあっても、行き過ぎた自己利益の追求を抑制するような社会的責任感や倫理感が欠如していた。
この例が示しているように、「教養のある人」には、知識が豊富であることに加え、品性や品格といった徳性をも身につけていることが求められる。簡単にいえば、「知」と「徳」の両面を兼ね備えていることが教養人の条件である。さらに、知識についても、特定分野に偏らない、さまざまな分野にわたる幅広い知識を持っていることが望ましい。
変わりゆく「教養」
では、「教養のある人」が身につけるべき「教養」の具体的な中身は何であろうか。
実は、教養の中身は明確な形で定義できるものではない。国や地域によっても異なるし、時の経過とともに変化するものだからである。
かつての日本には、「教養人が読むべき書物のリスト」とでもいうべきものがあった。たとえば、大正時代の旧制高校を発祥地として1970年前後まで日本の大学に見られた教養観のもとでは、カント『純粋理性批判』や西田幾多郎『善の研究』などの哲学書や、ゲーテ『若きウェルテルの悩み』などの文芸書が代表的書物とされた。これら難解な書物の内容が「教養」の内容に重なり、それらを読むことを通して教養が深まる、というのが当時の共通理解だったのである。
ところが、学問の専門化や細分化が進むなかで、このような教養についての共通理解は揺らいでゆく。文学であれ、政治学であれ、経済学であれ、それぞれの学部分野における研究が高度化した結果、他の学問にはあまり関心を払わないという学問の個別化が進む。それによって、たとえば先述のような哲学書を読むのは哲学を専攻する者だけ、という傾向が強まった。また、社会の価値観についても多様化や個別化が進み、一人ひとりの個性を重視した多様な生き方が容認されるようになった。さらに、誰でも情報発信できるネットやSNSの普及による情報量の激増は、「知識」と呼べるような「意味ある情報」とそうでない情報との区別をあいまいにしている。つまり、現代では、かつてとは異なり、皆が納得するような「教養人が読むべき書物のリスト」を作りにくい環境になってきたのである。
実は、教養の中身は明確な形で定義できるものではない。国や地域によっても異なるし、時の経過とともに変化するものだからである。
かつての日本には、「教養人が読むべき書物のリスト」とでもいうべきものがあった。たとえば、大正時代の旧制高校を発祥地として1970年前後まで日本の大学に見られた教養観のもとでは、カント『純粋理性批判』や西田幾多郎『善の研究』などの哲学書や、ゲーテ『若きウェルテルの悩み』などの文芸書が代表的書物とされた。これら難解な書物の内容が「教養」の内容に重なり、それらを読むことを通して教養が深まる、というのが当時の共通理解だったのである。
ところが、学問の専門化や細分化が進むなかで、このような教養についての共通理解は揺らいでゆく。文学であれ、政治学であれ、経済学であれ、それぞれの学部分野における研究が高度化した結果、他の学問にはあまり関心を払わないという学問の個別化が進む。それによって、たとえば先述のような哲学書を読むのは哲学を専攻する者だけ、という傾向が強まった。また、社会の価値観についても多様化や個別化が進み、一人ひとりの個性を重視した多様な生き方が容認されるようになった。さらに、誰でも情報発信できるネットやSNSの普及による情報量の激増は、「知識」と呼べるような「意味ある情報」とそうでない情報との区別をあいまいにしている。つまり、現代では、かつてとは異なり、皆が納得するような「教養人が読むべき書物のリスト」を作りにくい環境になってきたのである。
21世紀型の「教養」を求めて—どんな知識や能力が身につくのか—
とはいえ、時代や社会がどんなに変わろうとも、自らの知性や徳性を高め、豊かな生き方を実現したい、という人びとの願いが消えることはない。逆に、ネットやSNS上に情報があふれ、さまざまな価値観が入り乱れ、人と人との結びつきが希薄になり自分を見失いそうになりがちな現代においては、そうした願いは一層強くなっている。他方、教養のある人は、現代社会が求める人材像の一つでもある。変化の激しい現代では、決められた業務を淡々とこなすだけでなく、新たな課題を発見し、環境の変化に柔軟に対応することも求められる。しかもグローバル化により、われわれが相手とする人びとは世界中に広がっている。こうした現代社会の特徴は、広くて深い教養の重要性を高めているのである。
では、現代のわれわれが追求すべき教養とは何であろうか。書物のリストを示すことはできないが、次のような知識や能力を21世紀型の教養を構成するものとして提示することは可能であろう。一例として埼玉大学教養学部は、こうした「21世紀型の教養」を学生が総合的に身につけられるよう、5専修11専攻体制(上図参照)を整えている。
(1)幅広い学術的知識
「教養」を構成する要素として一番重要なのは、何といっても学術的知識である。とりわけ教養学部は、特定の学問分野ではなく、人文・社会科学系の多様な学問分野の知識を提供するところにその存在意義がある。たとえば埼玉大学では、ギリシャ哲学や中国古典から最新の政治理論まで、人間や世界を読み解くためのさまざまな知を総動員したカリキュラムが組まれている。
すでに述べたように、世の中には実に多種多様な個別学問が存在するようになった。これは学術の発展という点では歓迎すべきことである。しかし他方で、自分の専門分野にしか関心を持たない、視野の狭い人間(いわゆる「専門バカ」)を生むことにもつながっている。たとえば、2007年に日本学術会議が「知の統合」の必要性を訴えたが、それは、現状の細分化された学問では世の中で生じる複雑な現象の理解に支障をきたしている、という問題意識から発したものであった。
教養学部以外の学部に在籍しても、いわゆる「一般教養科目」のような授業を履修することで知識の広がりは得られるかもしれない。だが、教養学部という自分が所属する学部のなかに多くの学問およびそれを専門とする教員に触れる機会があり、「多学問共存」の意味を実感できるのが、教養学部の醍醐味なのである。
(2)深い専門知識
幅広い学術的知識と同様に求められるのが、深い専門知識である。多くの教養系の学部では卒業論文を書かなければ卒業できない。卒業論文を書くためには、特定の専門分野に特化した勉強が不可欠になる。なんとなく4年間を過ごしました(そういう場合は5年を超える場合もあるが)、というのが許されないのが教養学部のもう一つの特徴である。
大学によって違いはあるが、入学後半年あるいは1年してから自分の専門分野を決めるのが一般的である(埼玉大学の場合はどの専修や専攻に所属するかを1年生の最後に決める)。入学前から専門分野がはっきりしている学生もいれば、そうでない学生もいる。はっきりしている場合でも、自分が想像しているのとは違っていた、というケースもゼロではない。当初は国際関係論を専門にしようと思ったが、歴史学の方がおもしろそう、といった具合である。
ここで重要なのは、教養学部では、先に述べた「幅広い学術的知識」と「深い専門知識」の両方の探究を推進しているという点である。この二つは、一方を追究すると他方がおろそかになる、という互いに相反する関係にあり、その実践は意外に難しい。しかし、両方をうまく接合できれば、自分なりの新たな知を創造することも不可能ではない。たとえば、芸術論を専門としていた学生が哲学の授業を受けることで、芸術作品に込められた意味やメッセージをより深く理解し、芸術論と哲学を総合したような独創的な論文を書く、ということも起こり得るのである。
(3)多文化理解
多様な文化や価値観への理解も現代の教養を深める上で重要である。1989年の冷戦終結後、世界はグローバル化時代を迎え、国境を越えた人・モノ・カネ・情報の流れが加速した。これにより、言語や宗教を異にするさまざまな文化や価値観を持つ他者と交わる機会が増えた。こうした状況は、国境を越えた人びとの連帯を創りだす一方、「異質」な他者に対する誤解や偏見を助長することにもつながった。9・11同時多発テロは後者の典型例である。イスラムと西欧の対立という単純な構図のなかでテロや戦争が行われた。最近では、先進国においても、文化的背景の異なる移民や難民の受入れに反対する動きが強まっている。
お互いに違いがありながらも、対立ではなく共存できる道を探る。これこそが、現代のグローバル社会に生きる教養人の務めであろう。そのためには、自国の伝統、文化、歴史を知るだけでなく、異なる国や地域の伝統、文化、歴史も理解し、互いに尊重し合うことのできる素養が必要になる。教養学部は、古今東西の伝統、文化、歴史に関する多数の授業を通して、学生がこうした素養を身につけることを推進している。
(4)問題設定・解決能力
情報通信技術(ICT)や人工知能の発達により、現代社会は激しい変化や予測不可能な事態に直面することが多くなった。われわれの経済活動や社会生活においても、マニュアル通りに事が進まない場合や、予想外の問題に対応を迫られる局面が増えてきた。こうした激動する社会を生き抜く皆さんには、「問題」や「課題」を自ら発見し、その解決方法まで導き出せるような、柔軟で創造的な力が求められている。
「教養」とは、特定の職業や資格に直結する知識では必ずしもないため、「教養」を深めることに意義や価値を見出さない人もいる。しかし、Appleの創業者スティーブ・ジョブズが言ったように、「技術」と「教養(Liberal Arts)」が組み合わさって革新的な製品が生まれ、彼の会社が低迷から脱し、急成長を遂げたとの逸話もある。ICTや企業経営とは何の関係もないような文学、哲学、芸術に対する彼の深い造詣が、会社の問題解決に寄与したのである。
教養学部は職業訓練校ではないので、特定の仕事に直接役立つような問題設定や解決能力の伝授はできない。だが、そうした能力の「基盤」になり得る人文社会科学系の教養は学べる。また討論や発表、論文やレポートの作成を通して、他者と共に物事の本質を見極め、問題のありかを特定し、その解決を探る力を身につける仕掛けが、教養学部にはある。
(5)表現力・発信力
教養を身につけ深めるために、高い言語能力が求められることは自明であろう。われわれが、読み、書き、話し、そして考える上で、言語はなくてはならない存在である。特に最近では、自分の伝えたいことを相手に的確に表現し発信できる力、すなわちコミュニケーション能力の重要性が強調されるようになった。企業も、学生のコミュニケーション能力を重視する傾向にある。
日本人であれば日本語能力を磨くのが第一の目標となろう。だがグローバル化が進む現代では、世界共通語としての英語に代表される外国語能力の向上も不可欠である。そのサポートとして埼玉大学では、留学志望者や民間英語試験に対応した英語教育に加え、英語で講義する専門科目も強化している。教養学部には、世界9か国(米、英、独、墺、フィンランド、ハンガリー、中国、韓国、カンボジア)出身の外国人教員がおり、そのうち数名は日本文化や日本外交の専門家であるなど、世界とつながる特色ある授業を複数開講し、キャンパス内をグローバル化している。約160校の協定校への留学や海外インターンシップへの参加も促し、世界的な発信力のある教養人の育成に努めている。
では、現代のわれわれが追求すべき教養とは何であろうか。書物のリストを示すことはできないが、次のような知識や能力を21世紀型の教養を構成するものとして提示することは可能であろう。一例として埼玉大学教養学部は、こうした「21世紀型の教養」を学生が総合的に身につけられるよう、5専修11専攻体制(上図参照)を整えている。
(1)幅広い学術的知識
「教養」を構成する要素として一番重要なのは、何といっても学術的知識である。とりわけ教養学部は、特定の学問分野ではなく、人文・社会科学系の多様な学問分野の知識を提供するところにその存在意義がある。たとえば埼玉大学では、ギリシャ哲学や中国古典から最新の政治理論まで、人間や世界を読み解くためのさまざまな知を総動員したカリキュラムが組まれている。
すでに述べたように、世の中には実に多種多様な個別学問が存在するようになった。これは学術の発展という点では歓迎すべきことである。しかし他方で、自分の専門分野にしか関心を持たない、視野の狭い人間(いわゆる「専門バカ」)を生むことにもつながっている。たとえば、2007年に日本学術会議が「知の統合」の必要性を訴えたが、それは、現状の細分化された学問では世の中で生じる複雑な現象の理解に支障をきたしている、という問題意識から発したものであった。
教養学部以外の学部に在籍しても、いわゆる「一般教養科目」のような授業を履修することで知識の広がりは得られるかもしれない。だが、教養学部という自分が所属する学部のなかに多くの学問およびそれを専門とする教員に触れる機会があり、「多学問共存」の意味を実感できるのが、教養学部の醍醐味なのである。
(2)深い専門知識
幅広い学術的知識と同様に求められるのが、深い専門知識である。多くの教養系の学部では卒業論文を書かなければ卒業できない。卒業論文を書くためには、特定の専門分野に特化した勉強が不可欠になる。なんとなく4年間を過ごしました(そういう場合は5年を超える場合もあるが)、というのが許されないのが教養学部のもう一つの特徴である。
大学によって違いはあるが、入学後半年あるいは1年してから自分の専門分野を決めるのが一般的である(埼玉大学の場合はどの専修や専攻に所属するかを1年生の最後に決める)。入学前から専門分野がはっきりしている学生もいれば、そうでない学生もいる。はっきりしている場合でも、自分が想像しているのとは違っていた、というケースもゼロではない。当初は国際関係論を専門にしようと思ったが、歴史学の方がおもしろそう、といった具合である。
ここで重要なのは、教養学部では、先に述べた「幅広い学術的知識」と「深い専門知識」の両方の探究を推進しているという点である。この二つは、一方を追究すると他方がおろそかになる、という互いに相反する関係にあり、その実践は意外に難しい。しかし、両方をうまく接合できれば、自分なりの新たな知を創造することも不可能ではない。たとえば、芸術論を専門としていた学生が哲学の授業を受けることで、芸術作品に込められた意味やメッセージをより深く理解し、芸術論と哲学を総合したような独創的な論文を書く、ということも起こり得るのである。
(3)多文化理解
多様な文化や価値観への理解も現代の教養を深める上で重要である。1989年の冷戦終結後、世界はグローバル化時代を迎え、国境を越えた人・モノ・カネ・情報の流れが加速した。これにより、言語や宗教を異にするさまざまな文化や価値観を持つ他者と交わる機会が増えた。こうした状況は、国境を越えた人びとの連帯を創りだす一方、「異質」な他者に対する誤解や偏見を助長することにもつながった。9・11同時多発テロは後者の典型例である。イスラムと西欧の対立という単純な構図のなかでテロや戦争が行われた。最近では、先進国においても、文化的背景の異なる移民や難民の受入れに反対する動きが強まっている。
お互いに違いがありながらも、対立ではなく共存できる道を探る。これこそが、現代のグローバル社会に生きる教養人の務めであろう。そのためには、自国の伝統、文化、歴史を知るだけでなく、異なる国や地域の伝統、文化、歴史も理解し、互いに尊重し合うことのできる素養が必要になる。教養学部は、古今東西の伝統、文化、歴史に関する多数の授業を通して、学生がこうした素養を身につけることを推進している。
(4)問題設定・解決能力
情報通信技術(ICT)や人工知能の発達により、現代社会は激しい変化や予測不可能な事態に直面することが多くなった。われわれの経済活動や社会生活においても、マニュアル通りに事が進まない場合や、予想外の問題に対応を迫られる局面が増えてきた。こうした激動する社会を生き抜く皆さんには、「問題」や「課題」を自ら発見し、その解決方法まで導き出せるような、柔軟で創造的な力が求められている。
「教養」とは、特定の職業や資格に直結する知識では必ずしもないため、「教養」を深めることに意義や価値を見出さない人もいる。しかし、Appleの創業者スティーブ・ジョブズが言ったように、「技術」と「教養(Liberal Arts)」が組み合わさって革新的な製品が生まれ、彼の会社が低迷から脱し、急成長を遂げたとの逸話もある。ICTや企業経営とは何の関係もないような文学、哲学、芸術に対する彼の深い造詣が、会社の問題解決に寄与したのである。
教養学部は職業訓練校ではないので、特定の仕事に直接役立つような問題設定や解決能力の伝授はできない。だが、そうした能力の「基盤」になり得る人文社会科学系の教養は学べる。また討論や発表、論文やレポートの作成を通して、他者と共に物事の本質を見極め、問題のありかを特定し、その解決を探る力を身につける仕掛けが、教養学部にはある。
(5)表現力・発信力
教養を身につけ深めるために、高い言語能力が求められることは自明であろう。われわれが、読み、書き、話し、そして考える上で、言語はなくてはならない存在である。特に最近では、自分の伝えたいことを相手に的確に表現し発信できる力、すなわちコミュニケーション能力の重要性が強調されるようになった。企業も、学生のコミュニケーション能力を重視する傾向にある。
日本人であれば日本語能力を磨くのが第一の目標となろう。だがグローバル化が進む現代では、世界共通語としての英語に代表される外国語能力の向上も不可欠である。そのサポートとして埼玉大学では、留学志望者や民間英語試験に対応した英語教育に加え、英語で講義する専門科目も強化している。教養学部には、世界9か国(米、英、独、墺、フィンランド、ハンガリー、中国、韓国、カンボジア)出身の外国人教員がおり、そのうち数名は日本文化や日本外交の専門家であるなど、世界とつながる特色ある授業を複数開講し、キャンパス内をグローバル化している。約160校の協定校への留学や海外インターンシップへの参加も促し、世界的な発信力のある教養人の育成に努めている。
卒業後の進路
進路は多様性に富む。埼玉大学教養学部の例では、2023年度の主な就職先は、金融・保険(就職者+大学院等進学者に対する割合8%)、情報通信・運輸(19%)、サービス(10%)、教育・学習支援(5%)、製造(11%)、公務員(19%)など多岐にわたる。大学院進学者(8%)も数名輩出している。
もっとも、学生が身につけた「教養」とは、本来的に就職先だけから判断できるものではない。さらに言えば、就職のための「ツール」でもない。教養とは、就職後も、そして退職後も続く長い人生を規定し、根拠づけるものだからである。少なくとも、教養学部にはそういう気持ちを持った皆さんに入学してほしい。
もっとも、学生が身につけた「教養」とは、本来的に就職先だけから判断できるものではない。さらに言えば、就職のための「ツール」でもない。教養とは、就職後も、そして退職後も続く長い人生を規定し、根拠づけるものだからである。少なくとも、教養学部にはそういう気持ちを持った皆さんに入学してほしい。

