何を学ぶ
事実の観察・解釈とそれをする自分への省察をくり返し、人間と人間の社会に関する実践的、学際的、国際的な知と技・技術を新たに創造する。公認心理師などの資格も取得可能。

岡部 美香(おかべ みか)先生
大阪大学/大学院人間科学研究科/教授
1970年、大阪府生まれ。大阪大学人間科学部卒。愛媛大学講師・助教授、京都教育大学准教授、大阪大学准教授を経て現職。専攻は教育人間学。著書に『シリーズ人間科学 第6巻 越える・超える』など。
学問の歴史
大阪大学人間科学部は1972年に創設された、「人間科学」を冠する日本初の学部である。だが、学問としての人間科学の歴史はもう少し古い。人間科学は英語表記ではhuman sciencesであるが、その起源はフランス語のsciences humaines(シアンス ユメンヌ)(人間の/人間についての科学)にある。このsciences humainesは、実は、19~20世紀のドイツで興隆した「精神科学(Geisteswissenschaften(ガイステスヴィッセンシャフテン))」のフランス語訳であった。精神科学とは、元来は、自然科学と対置される学問領域、具体的には人文学・社会科学と呼ばれる領域を指す学術用語である。だが、20世紀の後半以降、精神科学よりも「人間科学」という表現の方が(特に日本では)一般的となり、その場合、自然科学の知見と人文学・社会科学の知見を統合・融合し、あるいは対話・対峙させ、学際的な知を生み出す学問領域として知られている。
自然科学の特徴は、同一の条件のもとで同一の手続きを遂行すれば、いつ、どこで、誰が関わっていようとも、(ほぼ)同一の結果に至ることができる普遍性にある。このような自然科学の知に基づく科学技術や社会システムは、人間の日常生活に安定と安心、便利さや快適さを与えてくれるものである。それゆえ、自然環境の破壊や社会システムの制度疲労が問題視されている今日においてなお、さらなる安定、安心、便利さ、快適さを追求するべく、自然科学のよりいっそうの高度化、すなわち細分化と緻密化が推し進められている。
他方で、人間が実際に生きる具体的な日常生活は、自然科学的な手法で明らかにすることのできないあいまいさや多様性に満ち溢れている。たとえば、「ちょっと待ってて」と言ったときに、相手が「ちょっととは、何秒/何分/何時間/何日のこと? 正確にどれだけ待てばよいの?」と一義的に言葉の意味内容を確定しようとしてきたら、あなたは困るのではないだろうか。人間には、互いの発する言葉や行動の意味内容をあえて確定せずあいまいなままにすることで、あるいはその意味内容に多様性という幅を生み出すことで、日常生活をうまく営むという知恵や技がある。このように、時や場所、置かれている状況や文脈の違いからそのつど複雑に影響を受ける人間のあり様、すなわち現実の世界で個別具体的な経験をしている多様な人間のあり様に学術の光を当てるのが人文学・社会科学の特徴であるといえる。
20世紀に入ると、自然科学のみならず人文学・社会科学の領域でも学問分野の細分化と緻密化が進み―この動向はしばしば「たこつぼ化」と揶揄される―、人間や人間の社会のあり様を統合的に捉えることが難しくなった。冒頭で述べたフランスのsciences humaines―旧来の哲学や歴史学と、心理学、社会学、文化人類学などの新たに興隆してきた学問分野とを相互に対話させるところに特徴がある―や、ドイツの哲学的人間学―生物学をはじめとする自然科学の成果を人文学・社会科学の考察に取り入れる点に特徴がある―は、19~20世紀にかけて成立・展開した学際的な統合科学としての人間科学の源流である。欧州で誕生したこの学問の潮流は、アメリカ合衆国における社会学や生態学、文化人類学といった学問分野の展開に大きな影響を及ぼすこととなった。
以上に述べてきたような欧米の人間科学の思潮が、創設時の大阪大学人間科学部の学問に影響を与えていた。学部創設から50年、その時々の社会的・学術的状況に鑑み、学科目や分野が新たに増設されたり廃止されたりしてきたが―2024年4月1日現在の学科目・分野は下の表を参照していただきたい―、人間科学において、現実の世界に生きる人間の個別具体的な経験に焦点を当てること、人間と人間の社会を統合的に、それゆえ学際的、国際的に探究すること、すなわち「実践性」「学際性」「国際性」を重視して学究する姿勢は、創設時から今日に至るまでずっと変わらない。
(以上の内容は、プロフィールの欄で紹介している著書でもう少し具体的に解説しているので、よければ参照されたい。)
自然科学の特徴は、同一の条件のもとで同一の手続きを遂行すれば、いつ、どこで、誰が関わっていようとも、(ほぼ)同一の結果に至ることができる普遍性にある。このような自然科学の知に基づく科学技術や社会システムは、人間の日常生活に安定と安心、便利さや快適さを与えてくれるものである。それゆえ、自然環境の破壊や社会システムの制度疲労が問題視されている今日においてなお、さらなる安定、安心、便利さ、快適さを追求するべく、自然科学のよりいっそうの高度化、すなわち細分化と緻密化が推し進められている。
他方で、人間が実際に生きる具体的な日常生活は、自然科学的な手法で明らかにすることのできないあいまいさや多様性に満ち溢れている。たとえば、「ちょっと待ってて」と言ったときに、相手が「ちょっととは、何秒/何分/何時間/何日のこと? 正確にどれだけ待てばよいの?」と一義的に言葉の意味内容を確定しようとしてきたら、あなたは困るのではないだろうか。人間には、互いの発する言葉や行動の意味内容をあえて確定せずあいまいなままにすることで、あるいはその意味内容に多様性という幅を生み出すことで、日常生活をうまく営むという知恵や技がある。このように、時や場所、置かれている状況や文脈の違いからそのつど複雑に影響を受ける人間のあり様、すなわち現実の世界で個別具体的な経験をしている多様な人間のあり様に学術の光を当てるのが人文学・社会科学の特徴であるといえる。
20世紀に入ると、自然科学のみならず人文学・社会科学の領域でも学問分野の細分化と緻密化が進み―この動向はしばしば「たこつぼ化」と揶揄される―、人間や人間の社会のあり様を統合的に捉えることが難しくなった。冒頭で述べたフランスのsciences humaines―旧来の哲学や歴史学と、心理学、社会学、文化人類学などの新たに興隆してきた学問分野とを相互に対話させるところに特徴がある―や、ドイツの哲学的人間学―生物学をはじめとする自然科学の成果を人文学・社会科学の考察に取り入れる点に特徴がある―は、19~20世紀にかけて成立・展開した学際的な統合科学としての人間科学の源流である。欧州で誕生したこの学問の潮流は、アメリカ合衆国における社会学や生態学、文化人類学といった学問分野の展開に大きな影響を及ぼすこととなった。
以上に述べてきたような欧米の人間科学の思潮が、創設時の大阪大学人間科学部の学問に影響を与えていた。学部創設から50年、その時々の社会的・学術的状況に鑑み、学科目や分野が新たに増設されたり廃止されたりしてきたが―2024年4月1日現在の学科目・分野は下の表を参照していただきたい―、人間科学において、現実の世界に生きる人間の個別具体的な経験に焦点を当てること、人間と人間の社会を統合的に、それゆえ学際的、国際的に探究すること、すなわち「実践性」「学際性」「国際性」を重視して学究する姿勢は、創設時から今日に至るまでずっと変わらない。
(以上の内容は、プロフィールの欄で紹介している著書でもう少し具体的に解説しているので、よければ参照されたい。)
学問の現状と今後の課題
では次に、21世紀に入って特に顕著になってきた人間科学の特徴について述べていこう。それは、専門家と非専門家との協働である。ここでいう非専門家とは、ある学問分野を専攻しているわけではないが、あるいは学問の研究そのものには特に関係や関心はないが、それぞれ独自で特異な主体として専門家と協働する人のことを意味する。人間科学部では、講演や公開講座を通じて研究の成果を大学から社会へと一方的に発信するだけではなく、実際の社会で生きている人々と協働しながら、まさにいま取り沙汰されている社会課題の解決・解消・緩和に取り組むという社学連携型の研究が推進されている。
社学連携型の研究においては、関わる人々がそれぞれに主体として参与し、協働する。つまり、さまざまな年齢や背景や経験を持つ複数の人々が、それぞれに独自で特異な視点や立場を活かし合う。そうした協働の場でこそ、それぞれの人の「かけがえのない私」のあり様やものの見方・考え方が際立つ。「実践性」「学際性」「国際性」を謳う人間科学においては、協働して研究に関わる人々が―「研究対象」と呼ばれる人々もアルバイトやボランティアで研究に協力する人々も含めて―主体であること、そうあれるような配慮が常に試みられていることがポイントとなる。
このような協働の研究を立ち上げるためには、特に次の二つの枠組みに囚われないよう留意する必要がある。一つは、日常生活を送るなかでいつの間にか形成され、馴染んできた、自分にとっては自明で自然なものの見方や考え方の枠組みである。もう一つは、既存社会のオーソリティ(行政の文書や教科書など)やマジョリティが示す、客観的ないしは一般的に「正しい/模範的」とされるものの見方や考え方の枠組みである。ここでいうマジョリティとは、人数に関係なく、ある集団のなかで自らの思考や行為を無批判にその集団における「基準・規準」「典型」「普通」だと見なす人のことを指す。この二つの枠組みに囚われると、その枠組みに収まらない、あるいは馴染まない人のことや物事が見えなくなるし、聴けなくなる。つまり、現実の世界で生起している事実がうまく観察できなくなるし、事実の解釈にも重大で深刻な偏りが出かねない。
しかしながら、いま述べた二つの枠組みは相当に厄介な代物である。というのも、多くの人々は、ある限定された枠組みのなかで自分がものを見たり考えたりしていることに気づいていない場合がしばしばだからである。二つの枠組みはそれほどに自明で自然で、疑うべくもない当たり前のものとして、専門家であれ非専門家であれ、私たちのものの見方や考え方、しばしば感覚にまでも擦り込まれている。
「みんながそうしている/言っているから」「われわれが共有できる(一つの)正解、模範的な解答、目的、到達点がある(に違いない)」「誰もが共有すべき客観的な知識、事実、情報がある(はずだ)」。こうしたフレーズが響く場には、人はいても、主体はいない。
関わる人々がそれぞれに主体として参与し協働する人間科学の研究では、何よりまず、大学教員であれ学生であれ、研究する人のものの見方や考え方にいつの間にか擦り込まれ、常にすでに作用している上記の二つの枠組みを省察することが不可欠となる。研究する人もまた、他の非専門家の人々と同様、個別具体的な文脈のなかで現実の世界を生きている一人の人間に過ぎない。したがって、研究する人のものの見方や考え方にいかなる枠組みもまったく擦り込まれていないなどということは基本的にはあり得ない。だからこそ、研究する人が、自分のものの見方や考え方にはどのような枠組みが擦り込まれているかを慎重に省察し、その特性と危険性に常に自覚的であろうとする姿勢を持つことが必要となる。
この省察のための方法論は、これまでも、それぞれの学問分野ごとにさまざまに開発されてきた。他の学問領域・分野の研究者との学際的な協働は、その一つの主要な方法論であり、研究をする人がエゴセントリズム(自己中心主義)やエスノセントリズム(自民族・自文化中心主義)、あるいは、オリエンタリズム―マジョリティから見て評価することのできるマイノリティ「らしさ」を、実際のマイノリティのあり様としてマイノリティの人々自身が受け入れてしまう態度―を自覚し省察する契機となってきた。非専門家との社学連携型の研究は、さらに、コロニアリズム(植民地主義)―マジョリティが意識的・無意識的にマイノリティのものの見方や考え方を支配・統制する態度―を自覚し省察する契機と、インターセクショナリティ(交差性)―社会や集団における権力関係や格差・差別は、一つではなく、複数の社会的カテゴリーやアイデンティティが複層的に交差する場で生起しているという捉え方―に開かれる契機を、人間科学を研究する人にもたらしてくれることだろう。
社学連携型の研究においては、関わる人々がそれぞれに主体として参与し、協働する。つまり、さまざまな年齢や背景や経験を持つ複数の人々が、それぞれに独自で特異な視点や立場を活かし合う。そうした協働の場でこそ、それぞれの人の「かけがえのない私」のあり様やものの見方・考え方が際立つ。「実践性」「学際性」「国際性」を謳う人間科学においては、協働して研究に関わる人々が―「研究対象」と呼ばれる人々もアルバイトやボランティアで研究に協力する人々も含めて―主体であること、そうあれるような配慮が常に試みられていることがポイントとなる。
このような協働の研究を立ち上げるためには、特に次の二つの枠組みに囚われないよう留意する必要がある。一つは、日常生活を送るなかでいつの間にか形成され、馴染んできた、自分にとっては自明で自然なものの見方や考え方の枠組みである。もう一つは、既存社会のオーソリティ(行政の文書や教科書など)やマジョリティが示す、客観的ないしは一般的に「正しい/模範的」とされるものの見方や考え方の枠組みである。ここでいうマジョリティとは、人数に関係なく、ある集団のなかで自らの思考や行為を無批判にその集団における「基準・規準」「典型」「普通」だと見なす人のことを指す。この二つの枠組みに囚われると、その枠組みに収まらない、あるいは馴染まない人のことや物事が見えなくなるし、聴けなくなる。つまり、現実の世界で生起している事実がうまく観察できなくなるし、事実の解釈にも重大で深刻な偏りが出かねない。
しかしながら、いま述べた二つの枠組みは相当に厄介な代物である。というのも、多くの人々は、ある限定された枠組みのなかで自分がものを見たり考えたりしていることに気づいていない場合がしばしばだからである。二つの枠組みはそれほどに自明で自然で、疑うべくもない当たり前のものとして、専門家であれ非専門家であれ、私たちのものの見方や考え方、しばしば感覚にまでも擦り込まれている。
「みんながそうしている/言っているから」「われわれが共有できる(一つの)正解、模範的な解答、目的、到達点がある(に違いない)」「誰もが共有すべき客観的な知識、事実、情報がある(はずだ)」。こうしたフレーズが響く場には、人はいても、主体はいない。
関わる人々がそれぞれに主体として参与し協働する人間科学の研究では、何よりまず、大学教員であれ学生であれ、研究する人のものの見方や考え方にいつの間にか擦り込まれ、常にすでに作用している上記の二つの枠組みを省察することが不可欠となる。研究する人もまた、他の非専門家の人々と同様、個別具体的な文脈のなかで現実の世界を生きている一人の人間に過ぎない。したがって、研究する人のものの見方や考え方にいかなる枠組みもまったく擦り込まれていないなどということは基本的にはあり得ない。だからこそ、研究する人が、自分のものの見方や考え方にはどのような枠組みが擦り込まれているかを慎重に省察し、その特性と危険性に常に自覚的であろうとする姿勢を持つことが必要となる。
この省察のための方法論は、これまでも、それぞれの学問分野ごとにさまざまに開発されてきた。他の学問領域・分野の研究者との学際的な協働は、その一つの主要な方法論であり、研究をする人がエゴセントリズム(自己中心主義)やエスノセントリズム(自民族・自文化中心主義)、あるいは、オリエンタリズム―マジョリティから見て評価することのできるマイノリティ「らしさ」を、実際のマイノリティのあり様としてマイノリティの人々自身が受け入れてしまう態度―を自覚し省察する契機となってきた。非専門家との社学連携型の研究は、さらに、コロニアリズム(植民地主義)―マジョリティが意識的・無意識的にマイノリティのものの見方や考え方を支配・統制する態度―を自覚し省察する契機と、インターセクショナリティ(交差性)―社会や集団における権力関係や格差・差別は、一つではなく、複数の社会的カテゴリーやアイデンティティが複層的に交差する場で生起しているという捉え方―に開かれる契機を、人間科学を研究する人にもたらしてくれることだろう。
学科目の内容とカリキュラム
大阪大学人間科学部では、入学してから1年半は、豊中キャンパスで他学部の学生たちと一緒に語学や教養教育の授業を履修することになっている。2年目の10月以降は、人間科学部のある吹田キャンパスに移り、それぞれの学科目・分野の専門に特化した授業を履修する。専門的な授業はそれぞれに独自で特異な内容であるが、あえて共通点を挙げるなら、ただ聴講するだけの授業よりも、自分で、あるいは他の受講生と協働で、議論・調査・分析・考察・実験・フィールドワーク・発表をする授業がかなり多い。また、講義室外はもちろん、大学の外で(時に非専門家の人々と協働で)行われる授業も少なくない。
もう一つ、人間科学部生の必修科目「人間科学概論」について紹介しておこう。1回生の春・夏学期に開講されるこの科目では、「人間科学とはどのような学問で、どのように学ぶのか」を学生同士で、また教員も交えて一緒に考えながら、学生それぞれの「人間科学」に関するイメージを明確にするとともに、「レポートの書き方や研究倫理等の研究技法」の習得といった「研究の入門過程を経験」することができる(2024年度シラバスより)。
筆者が担当した際には、行動学系・比較行動学の教授と協働で次のような授業を実施した。アマラ・カマラという名前の少女たちが「狼に育てられた」とする、世界的に有名な物語について、まず、比較行動学の教授が自然科学の立場から、その物語にまったく科学的根拠がないこと、つまりその物語が虚偽であることを証明する。そして次の週に、教育学系・教育人間学を専門とする筆者が人文学・社会科学の立場から、なぜ、そうした虚偽の物語が国際的に広く、また比較的長期にわたって「事実」あるいは「真実」と捉えられてきたのかを、時代的・社会的背景に即しながら分析する。同一の主題について、まったく異なる立場から証明したり分析したりするのを目の当たりにして、受講生は、人間と人間の社会に生起するどの事象にもさまざまな側面があることを学ぶとともに、自分に合った学科目・分野を選択する機会を得る。加えて、まったく異なる(時には相反する)視点からアプローチする他の学科目・分野の人々と協働することの重要性にも少しずつ気づいていく。
他の人には得がたい自分独自の気づきを得て、そこから「これはきっと私にしかできないだろう」という研究を自分で、あるいは大学の指導教員や他の学生たちと協働で進めていくというダイナミックで充実した経験を、人間科学という学問の場でぜひ、楽しんでいただきたい。
もう一つ、人間科学部生の必修科目「人間科学概論」について紹介しておこう。1回生の春・夏学期に開講されるこの科目では、「人間科学とはどのような学問で、どのように学ぶのか」を学生同士で、また教員も交えて一緒に考えながら、学生それぞれの「人間科学」に関するイメージを明確にするとともに、「レポートの書き方や研究倫理等の研究技法」の習得といった「研究の入門過程を経験」することができる(2024年度シラバスより)。
筆者が担当した際には、行動学系・比較行動学の教授と協働で次のような授業を実施した。アマラ・カマラという名前の少女たちが「狼に育てられた」とする、世界的に有名な物語について、まず、比較行動学の教授が自然科学の立場から、その物語にまったく科学的根拠がないこと、つまりその物語が虚偽であることを証明する。そして次の週に、教育学系・教育人間学を専門とする筆者が人文学・社会科学の立場から、なぜ、そうした虚偽の物語が国際的に広く、また比較的長期にわたって「事実」あるいは「真実」と捉えられてきたのかを、時代的・社会的背景に即しながら分析する。同一の主題について、まったく異なる立場から証明したり分析したりするのを目の当たりにして、受講生は、人間と人間の社会に生起するどの事象にもさまざまな側面があることを学ぶとともに、自分に合った学科目・分野を選択する機会を得る。加えて、まったく異なる(時には相反する)視点からアプローチする他の学科目・分野の人々と協働することの重要性にも少しずつ気づいていく。
他の人には得がたい自分独自の気づきを得て、そこから「これはきっと私にしかできないだろう」という研究を自分で、あるいは大学の指導教員や他の学生たちと協働で進めていくというダイナミックで充実した経験を、人間科学という学問の場でぜひ、楽しんでいただきたい。

