何を学ぶ
理論、データ、制度、歴史。多様な視点から、切れ味鋭い分析道具を武器に人間行動を解明し、社会経済問題の解決を通じて人びとの幸福へ貢献することを目指すのが経済学だ。

小川 光(おがわ ひかる)先生
東京大学/大学院経済学研究科、公共政策大学院/教授
1970年東京都生まれ。名古屋大学大学院経済学研究科を修了後、名古屋大学経済学部講師、准教授、教授を経て現職。専門は公共経済学。趣味は畑仕事と高校サッカー観戦。
さまざまなものが限られたなかで
私が高校生だったころ。40年近くも前のことである。まだ携帯電話もインターネットもない時代だったが、高校生なりにいろいろと欲しいものがあった。ところがお金がない。お金を稼ぐのにアルバイトもやった。すると今度は自由な時間が減ってしまった。高校生活の後半になると、将来や進路を漠然と考えるようになった。自分にはどういう能力や適性があり、どういう進路選択をすればいいのだろうか、と。お金、時間、能力に共通していることは、それらは無限に存在しないということだ。限られたお金、時間、能力しかなかったからこそ、悩み、やりくりに苦労したのである。もしそれらが無限にあれば、窮屈な生活の悩みから、ずいぶん解放されたことだろう。お金や時間、石油などの天然資源や食糧など、世の中のあらゆるものに限りがあり、そのなかで、皆が納得するようにうまくやりくりしていく方法を見出すことはできないだろうか。
その答えに一歩でも近づくための学問として、1932年に発刊した著書のなかで経済学を定義したのが、イギリスの経済学者、ライオネル・ロビンズである。彼は、経済学を「資源が有限であるという制約を受けたなかでの人間行動を分析する科学」であるとした。ここでいう資源とは、石油や食糧だけでなく、技能や能力、時間なども含んだ広い意味で使われている。株や為替といった用語が飛び交う世界のなかで金儲けの方法を考える学問が経済学だと思われる人は半分正解、しかし半分不正解だ。確かに金儲けしたいと思う人間の行動を学問の対象にはしているが、残念ながら金儲けの方法を探し、教えてくれる学問というわけではない。しかし、さまざまな制約に囲まれた世界での人間行動を分析した結果、資源が有限であることを理由にした人びとの悩みを和らげる、あるいは、人びとの対立や格差が少しでも改善される方法を見つけることができるとすれば、それはとても魅力的な挑戦だといえないだろうか。
その答えに一歩でも近づくための学問として、1932年に発刊した著書のなかで経済学を定義したのが、イギリスの経済学者、ライオネル・ロビンズである。彼は、経済学を「資源が有限であるという制約を受けたなかでの人間行動を分析する科学」であるとした。ここでいう資源とは、石油や食糧だけでなく、技能や能力、時間なども含んだ広い意味で使われている。株や為替といった用語が飛び交う世界のなかで金儲けの方法を考える学問が経済学だと思われる人は半分正解、しかし半分不正解だ。確かに金儲けしたいと思う人間の行動を学問の対象にはしているが、残念ながら金儲けの方法を探し、教えてくれる学問というわけではない。しかし、さまざまな制約に囲まれた世界での人間行動を分析した結果、資源が有限であることを理由にした人びとの悩みを和らげる、あるいは、人びとの対立や格差が少しでも改善される方法を見つけることができるとすれば、それはとても魅力的な挑戦だといえないだろうか。
経済学の歴史
経済学はいつの時代に始まった学問なのか。経済学の父と呼ばれる人に、スコットランドに生まれたアダム・スミスがいる。1776年に出版された『国富論』あるいは『諸国民の富』と邦訳される本の著者だ。
1700年代のこと。当時のヨーロッパでは、金や銀を多く持っていることこそが国民にとっての富だと考えられていた。今でいえば、たくさんお金を持っていることが国民の富であるというイメージだろう。国内にたくさん金や銀を貯め込むためには、何かを売って外国から金や銀と交換してもらわなければならない。そうなると、多くのものを海外に輸出し、その見返りを受け取ることによって国民の富は増大することになる。このような考え方は、重商主義と呼ばれる。ところが、金や銀をたくさん貯め込むことが、本当に国民にとっての幸せにつながる富といえるだろうか。金や銀、現代社会でいえば紙幣や硬貨をたくさん持っていれば幸せだろうか。お腹が空いたからといって金や銀を食べるわけにはいかず、暑さ寒さをそれらでしのげるわけでもない。そこで経済学の父はこう批判する。国民の幸せに資する富とは、おいしいものを食べることができ、快適な住環境に恵まれ、日々楽しく過ごすためのほんの少し便利なものを利用できることだ。金や銀はそれら(消費財と呼ぶ)を手に入れるための手段に過ぎない。国内にない便利なものやおいしい食べ物を世界中から集められること、つまり輸入こそが国民の富を形成するのだ。重商主義を真っ向から批判したアダム・スミスの発想。ここから経済学がはじまったといわれている。
1700年代のこと。当時のヨーロッパでは、金や銀を多く持っていることこそが国民にとっての富だと考えられていた。今でいえば、たくさんお金を持っていることが国民の富であるというイメージだろう。国内にたくさん金や銀を貯め込むためには、何かを売って外国から金や銀と交換してもらわなければならない。そうなると、多くのものを海外に輸出し、その見返りを受け取ることによって国民の富は増大することになる。このような考え方は、重商主義と呼ばれる。ところが、金や銀をたくさん貯め込むことが、本当に国民にとっての幸せにつながる富といえるだろうか。金や銀、現代社会でいえば紙幣や硬貨をたくさん持っていれば幸せだろうか。お腹が空いたからといって金や銀を食べるわけにはいかず、暑さ寒さをそれらでしのげるわけでもない。そこで経済学の父はこう批判する。国民の幸せに資する富とは、おいしいものを食べることができ、快適な住環境に恵まれ、日々楽しく過ごすためのほんの少し便利なものを利用できることだ。金や銀はそれら(消費財と呼ぶ)を手に入れるための手段に過ぎない。国内にない便利なものやおいしい食べ物を世界中から集められること、つまり輸入こそが国民の富を形成するのだ。重商主義を真っ向から批判したアダム・スミスの発想。ここから経済学がはじまったといわれている。
市場の力
輸入するにはやはり何かを輸出しなければならない。逆に輸出ばかりしていても輸入しなければ消費財を手に入れることができない。この場合、交換こそが富をもたらすことになる。そして、この交換を行う場所こそが市場(しじょう)と呼ばれる。私たちは、ありとあらゆるものを他者と交換しながら生きている。働くということは、自分の貴重な時間と働く力を誰かに提供する代わりに、お金を受け取るということを意味する。今度は、そのお金をほかの誰かに渡し、自分の好きなものと交換する。市場における交換を通じて生活が回っているのだ。われわれがその力を実感するのは、何かのきっかけで株が暴落したり、企業が軒並み倒産に追い込まれたりするときだが、普段の市場というのは目に見えないところで大きな力を発揮してわれわれの社会を支えてくれているのである。
経済学部で学ぶこと
経済学部では、初めに市場の威力を知るためにもミクロ経済学とマクロ経済学を学ぶ。ミクロ経済学では、個人や企業を分析の基本に据えて、現代経済の仕組みを理論的にとらえる力を身につける。マクロ経済学では、国の景気や失業、長期的な成長といった大きな視点から経済の仕組みを学ぶ。目に見えない市場の力を学ぶので、抽象的な理論を展開し、想像力を働かせる必要がある。また、ここでは数学の威力も体感してもらうこともできるだろう。「数学もまた言語なり」という言葉がある。日本語や英語といった自然言語同様に、数学もまた言語の一つだ。しかも数学言語は、自然言語に比べて曖昧さを残さず問題の核心に迫ることができ、国境を越えた万国共通言語であるところなど、魅力に富んだ優れもの。これを使わない手はない。
この時期に同時に学ぶのが、統計学、政治(制度)経済学、そして経済(学)史だ。どんな理論も実際のデータに基づいた検証にさらされる。データを読み解くこと、または理論仮説の検証のために必要不可欠なのが統計学なのだ。そして、国の経済と切っても切れない関係にあるのが、その国固有の政治や制度。市場を中心に据えるミクロ経済学やマクロ経済学だけで世の中の全てをとらえられるわけではない。政治や制度を重視して、現代経済をとらえる複眼的な視点も大切だ。また、過去の歴史を学ばずして未来を語ることほど難しいことはない。連綿と続いてきた経済の歴史および、歴史的なものの見方を学ぶ機会を提供するのが、経済(学)史という学問領域なのである。
多くの大学では、1年次で基礎科目を学習した後、専門科目あるいは応用科目を学んでいく。基礎科目を学ぶ1年目は、経済学の考え方や物事のとらえ方といった方法論を学ぶ場、あるいは分析道具を身につける機会といえる。貧困や格差はどうしたら解消できるか、少子高齢社会で経済を安定的に維持していくにはどうしたらよいかなど、問題は山のようにある。テーマは何でもいいが、貴方が「何かを知りたい」と思ったときに必要なのは、答えを探るための道具だ。魚をおいしく料理するのに包丁が必要なように、自分が見つけた大事な疑問に答えるには、分析道具が必要なのである。もちろん、包丁にさまざまな種類があるように、分析道具としての経済学にもいくつかの種類がある。基礎科目では、複数の分析手法を身につけてもらえる機会を提供している。
基礎科目を履修した後、いよいよ専門的な学習の場に移る。財政や金融といった科目は、世の中の税金やお金の流れを理解する上で不可欠な科目である。
また、国家間の貿易とお金の流れを学ぶ国際経済や失業問題に取り組む労働経済などは、どの大学でも専門科目として学ぶであろう。そのほかにも、資源や環境問題に関わる事象についてアプローチする環境経済学や、ライバル企業と競争する企業の戦略や企業内部の組織構造に踏み込んだ分析をする産業組織論など、多くの専門科目で現実の事例を学問的に読み解くための学習の場が提供されている。
このように基礎から専門を経て応用へと一歩ずつ体系的に学習することによって、確かな知識とスキル、論理的に物事を考える力を養いながら、興味ある経済社会問題に取り組む授業体系となっているのである。
この時期に同時に学ぶのが、統計学、政治(制度)経済学、そして経済(学)史だ。どんな理論も実際のデータに基づいた検証にさらされる。データを読み解くこと、または理論仮説の検証のために必要不可欠なのが統計学なのだ。そして、国の経済と切っても切れない関係にあるのが、その国固有の政治や制度。市場を中心に据えるミクロ経済学やマクロ経済学だけで世の中の全てをとらえられるわけではない。政治や制度を重視して、現代経済をとらえる複眼的な視点も大切だ。また、過去の歴史を学ばずして未来を語ることほど難しいことはない。連綿と続いてきた経済の歴史および、歴史的なものの見方を学ぶ機会を提供するのが、経済(学)史という学問領域なのである。
多くの大学では、1年次で基礎科目を学習した後、専門科目あるいは応用科目を学んでいく。基礎科目を学ぶ1年目は、経済学の考え方や物事のとらえ方といった方法論を学ぶ場、あるいは分析道具を身につける機会といえる。貧困や格差はどうしたら解消できるか、少子高齢社会で経済を安定的に維持していくにはどうしたらよいかなど、問題は山のようにある。テーマは何でもいいが、貴方が「何かを知りたい」と思ったときに必要なのは、答えを探るための道具だ。魚をおいしく料理するのに包丁が必要なように、自分が見つけた大事な疑問に答えるには、分析道具が必要なのである。もちろん、包丁にさまざまな種類があるように、分析道具としての経済学にもいくつかの種類がある。基礎科目では、複数の分析手法を身につけてもらえる機会を提供している。
基礎科目を履修した後、いよいよ専門的な学習の場に移る。財政や金融といった科目は、世の中の税金やお金の流れを理解する上で不可欠な科目である。
また、国家間の貿易とお金の流れを学ぶ国際経済や失業問題に取り組む労働経済などは、どの大学でも専門科目として学ぶであろう。そのほかにも、資源や環境問題に関わる事象についてアプローチする環境経済学や、ライバル企業と競争する企業の戦略や企業内部の組織構造に踏み込んだ分析をする産業組織論など、多くの専門科目で現実の事例を学問的に読み解くための学習の場が提供されている。
このように基礎から専門を経て応用へと一歩ずつ体系的に学習することによって、確かな知識とスキル、論理的に物事を考える力を養いながら、興味ある経済社会問題に取り組む授業体系となっているのである。
卒業後の進路
他の学問もそうであるように、経済学も不断に進歩している。進歩する経済学を学ぶだけでなく、自らが経済学を進歩させることを目指すために、大学院に進学する学生もいる。全体としてみればその数は多くはないが、それでも東京大学の場合で約10%の学生が大学院に進学している。他方で、多くの学生は卒業後、自らが学んだ知識や身につけた思考力を武器に社会で活躍する道を選ぶことになる。
経済学部を卒業した学生の進路は実に多様だ。東京大学を例にとれば、金融機関に就職する学生がもっとも多く、続いてコンサルティング、情報通信業、卸売業へ就職している。また、国家公務員や地方公務員となって公的部門から日本を支える道を選ぶ学生もいる。地域によって就職先には多少の特色があるかもしれないが、いずれにしても特定の分野に偏って社会に出ていくということはなく、幅広く、各自の目的に沿った進路選択が可能となっている。
経済学部を卒業した学生の進路は実に多様だ。東京大学を例にとれば、金融機関に就職する学生がもっとも多く、続いてコンサルティング、情報通信業、卸売業へ就職している。また、国家公務員や地方公務員となって公的部門から日本を支える道を選ぶ学生もいる。地域によって就職先には多少の特色があるかもしれないが、いずれにしても特定の分野に偏って社会に出ていくということはなく、幅広く、各自の目的に沿った進路選択が可能となっている。
改めて経済学とは
最先端の研究現場では、「ふつう」を基準にして作られた社会から排除される人々を包みこむための制度設計を模索することや、経済実験を用いた脳科学や心理学との融合を通じて人間理解を深めようとする研究など、これも経済学なのかと驚く研究が繰り広げられている。社会の変化とともに、経済学も日々変貌を遂げていくのである。
