何を学ぶ
新聞、テレビといったマスメディアからインターネットまで、広くメディアを理解する分野。会話やSNSなど、人びとのネットワーク、コミュニケーションについても研究する。

河崎 吉紀(かわさき よしのり)先生
同志社大学/社会学部/教授
1974年奈良県生まれ。同志社大学大学院文学研究科博士課程退学。博士(新聞学)。専攻はメディア史。著書として、『ジャーナリストの誕生―日本が理想としたイギリスの実像』(岩波書店、2018年)がある。
メディアとは何か
メディア学の出発点には「新聞学」という学問があった。19世紀末に「新聞」という言葉は「ニュース」という意味に使われており、たとえば「新聞紙」は「ニュースが載っている紙」であり、「新聞学」もニュースについての学問であった。
やがて、ニュースという内容より、ニュースを運んでいるメディアに注目が集まるようになる。メディア(media)とは直訳すれば「媒体」であり、媒体とは「何かと何かをつなぐもの」という意味を持つ。現場で起こった出来事を、新聞というメディアを通して読者に伝えるとすれば、事件と読者のあいだに新聞があって、ふたつの関係を橋渡ししているのである。だから、テレビや雑誌といったマスメディアだけではなく、携帯電話や手紙も人と人をつなぐものであるから、メディアというカテゴリーに含まれる。
ほかに何があるだろうか。たとえば、「教師」もメディアであると言える。それは知識と学生のあいだにあって、なかだちをする人であるからである。あるいは、「ファッション」もメディアであると言えるだろう。どのような服装を身につけるかで自分を表現するとすれば、ファッションはあなたの考えやセンス、立場を伝えるかけ橋になっていると考えることができるからだ。
このように、メディア学が扱う範囲は、考え方によって広げることができる。
やがて、ニュースという内容より、ニュースを運んでいるメディアに注目が集まるようになる。メディア(media)とは直訳すれば「媒体」であり、媒体とは「何かと何かをつなぐもの」という意味を持つ。現場で起こった出来事を、新聞というメディアを通して読者に伝えるとすれば、事件と読者のあいだに新聞があって、ふたつの関係を橋渡ししているのである。だから、テレビや雑誌といったマスメディアだけではなく、携帯電話や手紙も人と人をつなぐものであるから、メディアというカテゴリーに含まれる。
ほかに何があるだろうか。たとえば、「教師」もメディアであると言える。それは知識と学生のあいだにあって、なかだちをする人であるからである。あるいは、「ファッション」もメディアであると言えるだろう。どのような服装を身につけるかで自分を表現するとすれば、ファッションはあなたの考えやセンス、立場を伝えるかけ橋になっていると考えることができるからだ。
このように、メディア学が扱う範囲は、考え方によって広げることができる。
学問と職業
しかし、メディアそれ自体は、からっぽのうつわにすぎない。何でも盛りつけることができるが、内容はほかから借りてこなければならない。したがって、メディア学を志す者は、「うつわ(メディア)」それ自体を研究対象として学問をしたいのか、それとも実際にその「うつわ」に材料を盛りつけてみたいのかを問われることになる。
言いかえれば、メディアと社会の関係や産業の成り立ち、効果などを知りたいと思うかたわら、取材をして記事を書き、番組を企画してカメラをまわすという活動もしてみたいというためらいが生じる。どちらが重要なのだろうか。メディア学の原動力には、何かを表現したい、創造したい、ものを言いたいという強い欲求がある。人びとに何かを発信したいという気持ちが、メディアそれ自体の研究における情熱をも支えている。したがって、これらはどちらも大切な意欲である。
もう少し将来に向かって考えてみることにしよう。メディア学それ自体はメディアについての研究であり、必ずしも実地の訓練を意味するわけではない。
しかし、メディア学を学ぶ人のなかには、業界人を目指す者も多い。新聞記者になりたい、放送局に勤めたいという友人や仲間を、より多く得られる機会がメディア学系統の学部・学科にはあるだろう。それでは、メディア業界に入るための資格とは何だろうか。
ジャーナリストは一般に、専門職とみなされることが多いが、医者や弁護士のように資格制度があるわけではない。試験に合格した人しか「ものを言う」ことができないのだとすれば、それは憲法に定められた表現の自由に反してしまう。
そもそも、ジャーナリズム(journalism)には日本語訳がなく、もともとの意味は毎日の記録、つまり日記である。その延長上に考えてみると、ジャーナリストは必ずしもプロでなくてもよい。たとえば、インターネット上で日記をつける「ブログ」や、近況を伝えるFacebook、身の回りの出来事をつぶやくX(Twitter)など、設備や流通のシステムを持たない素人にも「ものを言う」機会がもたらされている。
言いかえれば、メディアと社会の関係や産業の成り立ち、効果などを知りたいと思うかたわら、取材をして記事を書き、番組を企画してカメラをまわすという活動もしてみたいというためらいが生じる。どちらが重要なのだろうか。メディア学の原動力には、何かを表現したい、創造したい、ものを言いたいという強い欲求がある。人びとに何かを発信したいという気持ちが、メディアそれ自体の研究における情熱をも支えている。したがって、これらはどちらも大切な意欲である。
もう少し将来に向かって考えてみることにしよう。メディア学それ自体はメディアについての研究であり、必ずしも実地の訓練を意味するわけではない。
しかし、メディア学を学ぶ人のなかには、業界人を目指す者も多い。新聞記者になりたい、放送局に勤めたいという友人や仲間を、より多く得られる機会がメディア学系統の学部・学科にはあるだろう。それでは、メディア業界に入るための資格とは何だろうか。
ジャーナリストは一般に、専門職とみなされることが多いが、医者や弁護士のように資格制度があるわけではない。試験に合格した人しか「ものを言う」ことができないのだとすれば、それは憲法に定められた表現の自由に反してしまう。
そもそも、ジャーナリズム(journalism)には日本語訳がなく、もともとの意味は毎日の記録、つまり日記である。その延長上に考えてみると、ジャーナリストは必ずしもプロでなくてもよい。たとえば、インターネット上で日記をつける「ブログ」や、近況を伝えるFacebook、身の回りの出来事をつぶやくX(Twitter)など、設備や流通のシステムを持たない素人にも「ものを言う」機会がもたらされている。
メディアを学ぶ多彩なテーマ
さて、メディア学が職業訓練とは異なるということが、ゆっくりと見えてきたのではないだろうか。メディアを使いこなせること、その練習というより、むしろ大事なことはメディアを理解することである(下図を参照)。
たとえば、ほとんどの新聞社や放送局は採用条件に「学歴」を挙げ、筆記試験や面接を行う。いったいいつからはじめたのか。入社してから訓練するのに、なぜ試験が必要なのか。そもそも何を測っているのだろう。確かなことは、こうした仕組みが1920年代ごろから定着しはじめたことだ。そこには何かしらの理由があるに違いない。
メディア産業やそこで働く人びとの研究は、メディア史において充実している。
あるいは政治的弾圧という観点から見て、新聞紙法(1909年に制定された日刊新聞や定期刊行雑誌の取り締まりを目的とした法律)や讒謗律(ざんぼうりつ)(1875年に公布された法律。著作や文書などによる他人への中傷を取り締まった。新聞紙法とともに、自由民権運動の隆盛に伴う政府批判を規制するために利用された)など法的な側面に注目してもよい。放送法をはじめ、メディアの送り手の問題を考えるには、避けては通れないからである。
ところで、ある番組のよしあしについて、あなたはだれかに判断してほしいだろうか。この番組はよい、これはダメと言われて、素直に従うのは子どものころの話だろう。次に読者や視聴者など、受け手の問題についても考えてみよう。たとえばいま、小説を読んでいる子どもがいたとして、しかられることはまずないと思う。むしろ勉強熱心だとほめられるだろう。
しかし、明治時代はそうではなかった。そのころの小説は俗悪なメディアとして世間で敵視されたこともあり、探偵小説は子どもを犯罪へ導くのだと言われていた。
このように、メディアそれ自体のよしあしを問う姿勢は今日でも残っている。そこからさらにもう一歩進んで、内容を評価しようとすれば、「評論」というカテゴリーが現れてくる。しかし、メディア学は理解を目指すものであって、判断をくだすものではない。
だから、内容に対する「評論」と「分析」は、厳密に分けて考える。メディアの内容分析では、ジェンダーや人種の問題を中心に数多くの研究が行われている。あるいは、映像の表現技法を研究するという方向性もあるだろう。
よいとかわるいとかという判断とは、メディアが人びとに与える影響を前提にしている。
つまり、暴力的な番組を見れば、子どもたちも暴力的になるという考えは、メディアに効果があってはじめて成り立つ。
マス・コミュニケーションの研究は、第二次世界大戦のとき、いかにして人びとを戦争に協力させるか、という宣伝の効果を調べるなかで生まれた。戦争が終わると、今度はモノを売るためという経済的な視点により、広告における表現技法や視聴率などが問題になった。もちろん、選挙におけるメディアの効果など、政治的なテーマも大切である。
また、マスメディアだけの影響ではないという説は古くからあり、個人的なネットワークが果たす役割や、くちコミやうわさの研究などもメディア学の視野に入ってくる。
さて、メディア学に関連するさまざまな分野は、実際には講義というかたちで提供されることになる。ここでは、同志社大学社会学部メディア学科のカリキュラムを下の表に示しておこう。
業界人を目指すのもよし、メディアとの関わり方を考える、そういう場であってもよい。
いずれにせよ、現代社会においてメディアに関わらないで済む生活はありえない。まずはメディアを理解し、自分なりのペースを見つけることが大切である。
たとえば、ほとんどの新聞社や放送局は採用条件に「学歴」を挙げ、筆記試験や面接を行う。いったいいつからはじめたのか。入社してから訓練するのに、なぜ試験が必要なのか。そもそも何を測っているのだろう。確かなことは、こうした仕組みが1920年代ごろから定着しはじめたことだ。そこには何かしらの理由があるに違いない。
メディア産業やそこで働く人びとの研究は、メディア史において充実している。
あるいは政治的弾圧という観点から見て、新聞紙法(1909年に制定された日刊新聞や定期刊行雑誌の取り締まりを目的とした法律)や讒謗律(ざんぼうりつ)(1875年に公布された法律。著作や文書などによる他人への中傷を取り締まった。新聞紙法とともに、自由民権運動の隆盛に伴う政府批判を規制するために利用された)など法的な側面に注目してもよい。放送法をはじめ、メディアの送り手の問題を考えるには、避けては通れないからである。
ところで、ある番組のよしあしについて、あなたはだれかに判断してほしいだろうか。この番組はよい、これはダメと言われて、素直に従うのは子どものころの話だろう。次に読者や視聴者など、受け手の問題についても考えてみよう。たとえばいま、小説を読んでいる子どもがいたとして、しかられることはまずないと思う。むしろ勉強熱心だとほめられるだろう。
しかし、明治時代はそうではなかった。そのころの小説は俗悪なメディアとして世間で敵視されたこともあり、探偵小説は子どもを犯罪へ導くのだと言われていた。
このように、メディアそれ自体のよしあしを問う姿勢は今日でも残っている。そこからさらにもう一歩進んで、内容を評価しようとすれば、「評論」というカテゴリーが現れてくる。しかし、メディア学は理解を目指すものであって、判断をくだすものではない。
だから、内容に対する「評論」と「分析」は、厳密に分けて考える。メディアの内容分析では、ジェンダーや人種の問題を中心に数多くの研究が行われている。あるいは、映像の表現技法を研究するという方向性もあるだろう。
よいとかわるいとかという判断とは、メディアが人びとに与える影響を前提にしている。
つまり、暴力的な番組を見れば、子どもたちも暴力的になるという考えは、メディアに効果があってはじめて成り立つ。
マス・コミュニケーションの研究は、第二次世界大戦のとき、いかにして人びとを戦争に協力させるか、という宣伝の効果を調べるなかで生まれた。戦争が終わると、今度はモノを売るためという経済的な視点により、広告における表現技法や視聴率などが問題になった。もちろん、選挙におけるメディアの効果など、政治的なテーマも大切である。
また、マスメディアだけの影響ではないという説は古くからあり、個人的なネットワークが果たす役割や、くちコミやうわさの研究などもメディア学の視野に入ってくる。
さて、メディア学に関連するさまざまな分野は、実際には講義というかたちで提供されることになる。ここでは、同志社大学社会学部メディア学科のカリキュラムを下の表に示しておこう。
業界人を目指すのもよし、メディアとの関わり方を考える、そういう場であってもよい。
いずれにせよ、現代社会においてメディアに関わらないで済む生活はありえない。まずはメディアを理解し、自分なりのペースを見つけることが大切である。


