何を学ぶ
社会に流布する常識を疑い、自由な生き方を見つけ出すための学問。常識を成り立たせている社会の仕組みを解明することで、その拘束から解き放たれる道筋を知ることができる。

土井 隆義(どい たかよし)先生
筑波大学/総合学域群第一類長/教授
1960年、山口県生まれ。著書に『「宿命」を生きる若者たち』『つながりを煽られる子どもたち』『キャラ化する/される子どもたち』(以上、岩波ブックレット)、『友だち地獄』(ちくま新書)など。
社会学とは斜解学である
皆さんは、数学の図形問題がお好きですか? 好きな方は、どんなところに魅力を感じていますか? 高校時代の私は、適切な箇所にうまく補助線が引けると、図形の見え方がそれ以前とはまるで一転して、証明への道筋がくっきりと浮かび上がってくるところに惹かれていました。
社会学とは、世界という図形を理解するときに、手助けとして使うこの補助線に当たるものです。社会学を通して世界を眺めると、それまでとはまったく異なった見方をすることができます。もっとも、図形の証明問題とは違って、社会学を使って眺めたほうが真実に近づくことができるというわけではありません。しかし、眺めるときの角度を替えることで、世界の理解の仕方を複眼的にして深めることはできます。駄洒落(だじゃれ)のようですが、その意味で社会学とは斜解学だといえます。
そもそも私たちは、この世界をありのままに眺めているわけではありません。あらかじめ自分のなかに存在している眼鏡を使って眺めています。たとえば、いま読んでいるこの『螢雪時代』が雑誌に見えるのは、あらかじめ雑誌という概念を皆さんが知っているからです。そんな概念が存在しない世界では、単にインクの染みのついた紙が束ねられているものとしか見えないでしょう。
このような意味で、私たちは必ず何らかの色眼鏡をかけてこの世界を眺めて理解しています。眼鏡を外し、虚心に世界を理解することなどできません。このとき、以前とは異なった色の眼鏡を提供してくれるものが社会学なのです。ただ色を換えて眺めることを可能にするだけですから、どちらの眼鏡が正しいのかと問うことには意味がありません。では、わざわざ色の異なった眼鏡をかけてみることに、いったいどんな意義があるのでしょうか。
ときどき、社会学は何の役に立ちますかと尋ねられることがあります。もっと直接的に、社会問題の解決に役立ちますかと問われることもあります。そんなとき私は、役立つとも、役立たないともいえると答えます。見方が変われば、何を問題とみなすのか、その判断基準も変わってくるからです。ある状態が問題でありうるのも、世界を理解するときの一つの見方なのです。この視座転換によって得られる新たな発見こそが社会学の魅力であり、それを学ぶことの意義だといえるでしょう。
社会学とは、世界という図形を理解するときに、手助けとして使うこの補助線に当たるものです。社会学を通して世界を眺めると、それまでとはまったく異なった見方をすることができます。もっとも、図形の証明問題とは違って、社会学を使って眺めたほうが真実に近づくことができるというわけではありません。しかし、眺めるときの角度を替えることで、世界の理解の仕方を複眼的にして深めることはできます。駄洒落(だじゃれ)のようですが、その意味で社会学とは斜解学だといえます。
そもそも私たちは、この世界をありのままに眺めているわけではありません。あらかじめ自分のなかに存在している眼鏡を使って眺めています。たとえば、いま読んでいるこの『螢雪時代』が雑誌に見えるのは、あらかじめ雑誌という概念を皆さんが知っているからです。そんな概念が存在しない世界では、単にインクの染みのついた紙が束ねられているものとしか見えないでしょう。
このような意味で、私たちは必ず何らかの色眼鏡をかけてこの世界を眺めて理解しています。眼鏡を外し、虚心に世界を理解することなどできません。このとき、以前とは異なった色の眼鏡を提供してくれるものが社会学なのです。ただ色を換えて眺めることを可能にするだけですから、どちらの眼鏡が正しいのかと問うことには意味がありません。では、わざわざ色の異なった眼鏡をかけてみることに、いったいどんな意義があるのでしょうか。
ときどき、社会学は何の役に立ちますかと尋ねられることがあります。もっと直接的に、社会問題の解決に役立ちますかと問われることもあります。そんなとき私は、役立つとも、役立たないともいえると答えます。見方が変われば、何を問題とみなすのか、その判断基準も変わってくるからです。ある状態が問題でありうるのも、世界を理解するときの一つの見方なのです。この視座転換によって得られる新たな発見こそが社会学の魅力であり、それを学ぶことの意義だといえるでしょう。
社会的な根拠を問い直す
もちろん世の中には、貧困や差別、環境破壊、人権侵害など、人びとの意見がほぼ一致する問題もあります。しかし、安全保障や移民対策など、立場によって捉え方が異なる問題もあります。身近な例でいえば、街角の防犯カメラを増やすことには賛成の人もいれば反対の人もいるでしょう。安全の確保を優先すべきか、プライバシーの確保を優先すべきか、人によって意見が異なるからです。
たとえば、安全の確保を優先したい人の目には、防犯カメラの設置台数がなかなか増えないことは社会問題と映るでしょう。しかし、プライバシーの確保を優先したい人の目には、防犯カメラの設置台数が増えることこそ社会問題と映るでしょう。では、両者の違いはどんな背景から生じているのでしょうか。そして、それぞれの立場にはどんな利点と欠点があるのでしょうか。社会学という学問は、まずそこを問い直してみることから研究をはじめるのです。
皆さんのなかには、そんな余計な眼鏡なんか要らない、いまかけている眼鏡だけで充分だと思われる方もいらっしゃるかもしれません。おそらくそれは、いまの眼鏡に何の不自由も感じていないからでしょう。しかし、その状態がこの先もずっと続くという保証はありませんし、別の見方を採ってみると、人生の選択肢が意外に拡がるということもあります。そもそもいまの眼鏡にまったく不自由を感じていないということ自体、実は社会からそう思わされているだけなのかもしれないのです。
たとえば皆さんのなかには、自分には友だちが少ないとか、コミュニケーション能力がないなどと悩んでいる人がいるかもしれません。そして、それを自分の責任だと思い込んでいるかもしれません。でも、そもそもなぜそれを理由に悩まなければならないのか、それが悩みになってしまうのはいったいなぜなのか、その根拠のほうを問い直してみてはどうでしょうか。見方が変われば、悩んでいること自体がばからしく思えてくるかもしれません。本質的に重要なのは、悩みそのものではなくて、それを悩みとして成立させている社会の仕組みのほうかもしれないのです。そんな視座転換を可能にしてくれるものが社会学という学問です。
このように、問題の見方を変えることが社会学の主たる役目です。もちろん、ときには既成の社会問題を解決する手がかりを与えてくれることもあります。しかし、そこでもやはり社会学の得意技は視座転換です。それがどんなものなのか、2020年頃に大きな社会問題となったこんな事例から考えてみましょう。
たとえば、安全の確保を優先したい人の目には、防犯カメラの設置台数がなかなか増えないことは社会問題と映るでしょう。しかし、プライバシーの確保を優先したい人の目には、防犯カメラの設置台数が増えることこそ社会問題と映るでしょう。では、両者の違いはどんな背景から生じているのでしょうか。そして、それぞれの立場にはどんな利点と欠点があるのでしょうか。社会学という学問は、まずそこを問い直してみることから研究をはじめるのです。
皆さんのなかには、そんな余計な眼鏡なんか要らない、いまかけている眼鏡だけで充分だと思われる方もいらっしゃるかもしれません。おそらくそれは、いまの眼鏡に何の不自由も感じていないからでしょう。しかし、その状態がこの先もずっと続くという保証はありませんし、別の見方を採ってみると、人生の選択肢が意外に拡がるということもあります。そもそもいまの眼鏡にまったく不自由を感じていないということ自体、実は社会からそう思わされているだけなのかもしれないのです。
たとえば皆さんのなかには、自分には友だちが少ないとか、コミュニケーション能力がないなどと悩んでいる人がいるかもしれません。そして、それを自分の責任だと思い込んでいるかもしれません。でも、そもそもなぜそれを理由に悩まなければならないのか、それが悩みになってしまうのはいったいなぜなのか、その根拠のほうを問い直してみてはどうでしょうか。見方が変われば、悩んでいること自体がばからしく思えてくるかもしれません。本質的に重要なのは、悩みそのものではなくて、それを悩みとして成立させている社会の仕組みのほうかもしれないのです。そんな視座転換を可能にしてくれるものが社会学という学問です。
このように、問題の見方を変えることが社会学の主たる役目です。もちろん、ときには既成の社会問題を解決する手がかりを与えてくれることもあります。しかし、そこでもやはり社会学の得意技は視座転換です。それがどんなものなのか、2020年頃に大きな社会問題となったこんな事例から考えてみましょう。
どんな補助線を引くのか
新型コロナ禍初年の日本の自殺は、それまでの傾向とは大きく異なるものでした。日本の自殺は1990年代の後半に急上昇してしばらく高止まりを続けた後、2010年頃から徐々に減少していました。ところが2020年の4月から7月までは、それまでの傾向に輪をかけて大幅な減少を示したのです。その理由について、マスコミなどではこのようにいわれました。いわく、コロナの感染拡大を防ぐために在宅勤務や遠隔授業が増えて人間関係のストレスが減ったから。いわく、ステイホームの奨励で家族どうしの絆が強まったから。
ところがその後、8月からは傾向が反転して自殺が急増し、10月頃には以前をはるかに上回る自殺者数を出すまでになりました。その理由について、マスコミなどではこのようにいわれました。いわく、コロナで日本経済が大打撃を受けて生活に行き詰まった人たちが増えたから。いわく、ステイホームの奨励で孤立感が深まったり家族内のストレスが強まったりしたから。
どちらの説明も、それぞれの局面では正しく聞こえます。でも両方を並べてみると、何かおかしいと思いませんか。職場や学校で過ごす時間が減ったことは、いったいプラスに作用したのでしょうか、それともマイナスに作用したのでしょうか。またステイホームの奨励によって、いったい家庭内の人間関係は良くなったのでしょうか、それとも悪くなったのでしょうか。
ある現象を理解しようとするとき、その現象だけを取り上げて行き当たりばったりの説明を加えると、他の現象と比較したとき、辻褄(つじつま)が合わなくなってしまうことがあります。木だけを見て森を見ていないからです。では、ここでこんな補助線を引いてみてはどうでしょうか。人生に対する私たちの不遇感や孤立感は、周囲の人たちと自分を比較することで増大したり減少したりする傾向にある、言い換えれば不遇感や孤立感とは、期待値と現状とのギャップから生じるものであると。
皆さんが学校で期末試験を受けたとき、その結果が70点だったとしましょう。皆さんのなかには、その点数を見て飛び上がって喜ぶ人もいれば、悔しがって塞ぎ込む人もいるでしょう。同じ点数なのに、人によってそれを満足に感じたり不満に感じたりするのは、自分のなかでその点数を位置づけるときの基準が、すなわち期待水準が人によって違っているからでしょう。
だとすると、2020年前半の日本では、コロナ禍で社会全体が活力を失っていたため、何かの理由で人生に躓(つまず)いていた人の不遇感や孤立感は、それまでよりも相対的に小さくなったと解釈することができないでしょうか。「周囲のみんなも同じ」と思えたからではないでしょうか。ところが後半になると、今度は再び社会が活力を取り戻し始めたため、そこで生じた格差がかつて以上に不遇感や孤立感を煽(あお)るようになったといえないでしょうか。「自分だけ取り残されて」と思うようになってしまったからではないでしょうか。
一般的には、現状が悪化すれば不遇感や孤立感は高まるといえます。しかし、仮に現状が悪化していたとしても、それ以上に期待水準のほうが低下していれば、不遇感や孤立感は相対的に減少していくことになります。期待水準と現状のギャップが小さくなるからです。事実、2020年の日本で失業者がもっとも増えたのは10月ではなく、実は4月でした。社会学では、これを相対的剥奪という言葉で概念化しています。
ところがその後、8月からは傾向が反転して自殺が急増し、10月頃には以前をはるかに上回る自殺者数を出すまでになりました。その理由について、マスコミなどではこのようにいわれました。いわく、コロナで日本経済が大打撃を受けて生活に行き詰まった人たちが増えたから。いわく、ステイホームの奨励で孤立感が深まったり家族内のストレスが強まったりしたから。
どちらの説明も、それぞれの局面では正しく聞こえます。でも両方を並べてみると、何かおかしいと思いませんか。職場や学校で過ごす時間が減ったことは、いったいプラスに作用したのでしょうか、それともマイナスに作用したのでしょうか。またステイホームの奨励によって、いったい家庭内の人間関係は良くなったのでしょうか、それとも悪くなったのでしょうか。
ある現象を理解しようとするとき、その現象だけを取り上げて行き当たりばったりの説明を加えると、他の現象と比較したとき、辻褄(つじつま)が合わなくなってしまうことがあります。木だけを見て森を見ていないからです。では、ここでこんな補助線を引いてみてはどうでしょうか。人生に対する私たちの不遇感や孤立感は、周囲の人たちと自分を比較することで増大したり減少したりする傾向にある、言い換えれば不遇感や孤立感とは、期待値と現状とのギャップから生じるものであると。
皆さんが学校で期末試験を受けたとき、その結果が70点だったとしましょう。皆さんのなかには、その点数を見て飛び上がって喜ぶ人もいれば、悔しがって塞ぎ込む人もいるでしょう。同じ点数なのに、人によってそれを満足に感じたり不満に感じたりするのは、自分のなかでその点数を位置づけるときの基準が、すなわち期待水準が人によって違っているからでしょう。
だとすると、2020年前半の日本では、コロナ禍で社会全体が活力を失っていたため、何かの理由で人生に躓(つまず)いていた人の不遇感や孤立感は、それまでよりも相対的に小さくなったと解釈することができないでしょうか。「周囲のみんなも同じ」と思えたからではないでしょうか。ところが後半になると、今度は再び社会が活力を取り戻し始めたため、そこで生じた格差がかつて以上に不遇感や孤立感を煽(あお)るようになったといえないでしょうか。「自分だけ取り残されて」と思うようになってしまったからではないでしょうか。
一般的には、現状が悪化すれば不遇感や孤立感は高まるといえます。しかし、仮に現状が悪化していたとしても、それ以上に期待水準のほうが低下していれば、不遇感や孤立感は相対的に減少していくことになります。期待水準と現状のギャップが小さくなるからです。事実、2020年の日本で失業者がもっとも増えたのは10月ではなく、実は4月でした。社会学では、これを相対的剥奪という言葉で概念化しています。
他者理解から自己理解へ
このように、社会学の概念を使って補助線を引くことで、個々の事象だけでなく、それらの背後に一貫して存在している変数に気づくことができます。もちろん、それが真実に近い解釈だといっているわけではありません。しかし、世界を眺めるときの眼差しを複眼的にしてくれるのは事実でしょう。したがって、その問題を解決しようとするときにはどんな対策を採るべきなのか、そのヒントの選択肢を増やしてくれるのも事実だといえるでしょう。
皆さんのなかには、そんな問題をかかえた人たちはたしかに気の毒だけれども、自分の人生とはまるで接点がないと思われる方もいるかもしれません。でも、自分とは異なった境遇に置かれた他者の理解を深めることは、実は皆さん自身の人生にとっても重要なことなのです。「情けは人のためならず」という言葉がありますが、そんな他者と出会い、その生きづらさを理解することは、これから皆さんが生きていくときの大きな糧となり得るからです。
皆さんは、自分の顔を自身でじかに見ることはできませんね。確認したいときは鏡に映して見ているはずです。同様に、自分がどんな人間なのかも、自分自身が一番よく知っているようでいて、実は意外に分かっていないものです。むしろ自分の思い込みに縛られることのない客観的な自己像は、他者から受ける評価という鏡を通してはじめて把握できることが多いものです。人間が社会的存在である所以です。
皆さんのなかにも、自分では思いもしなかった評価を周囲から受けたことで、自分の知らない自分を発見できた経験をもつ方はいらっしゃるのではないでしょうか。このように私たちは、他者との関わりのなかで言葉を学び、その言葉を使って自分の姿かたちを作り上げていく存在です。社会学では、「鏡に映った自己」という比喩を使って、この自己認識の仕組みを説明しています。
しかしこのとき、自分と似通った相手としか付き合っていないと、自分の知らない自分の姿に気づくことは難しくなります。自分の分身だけと向き合っているようなものだからです。そこでは想定内の反応しか得られません。言い換えれば、これから長い人生のなかで何かの理由でふと躓いてしまったとき、自分でも気づいていない別の可能性も自分にはあるのだと気づかせてくれるのは、意外な反応を返してくれる異質な相手なのです。その意味で、他者理解は同時に自己理解でもあるのです。
皆さんのなかには、そんな問題をかかえた人たちはたしかに気の毒だけれども、自分の人生とはまるで接点がないと思われる方もいるかもしれません。でも、自分とは異なった境遇に置かれた他者の理解を深めることは、実は皆さん自身の人生にとっても重要なことなのです。「情けは人のためならず」という言葉がありますが、そんな他者と出会い、その生きづらさを理解することは、これから皆さんが生きていくときの大きな糧となり得るからです。
皆さんは、自分の顔を自身でじかに見ることはできませんね。確認したいときは鏡に映して見ているはずです。同様に、自分がどんな人間なのかも、自分自身が一番よく知っているようでいて、実は意外に分かっていないものです。むしろ自分の思い込みに縛られることのない客観的な自己像は、他者から受ける評価という鏡を通してはじめて把握できることが多いものです。人間が社会的存在である所以です。
皆さんのなかにも、自分では思いもしなかった評価を周囲から受けたことで、自分の知らない自分を発見できた経験をもつ方はいらっしゃるのではないでしょうか。このように私たちは、他者との関わりのなかで言葉を学び、その言葉を使って自分の姿かたちを作り上げていく存在です。社会学では、「鏡に映った自己」という比喩を使って、この自己認識の仕組みを説明しています。
しかしこのとき、自分と似通った相手としか付き合っていないと、自分の知らない自分の姿に気づくことは難しくなります。自分の分身だけと向き合っているようなものだからです。そこでは想定内の反応しか得られません。言い換えれば、これから長い人生のなかで何かの理由でふと躓いてしまったとき、自分でも気づいていない別の可能性も自分にはあるのだと気づかせてくれるのは、意外な反応を返してくれる異質な相手なのです。その意味で、他者理解は同時に自己理解でもあるのです。
世界を複眼で見つめよう
近年、広く注目を集めている社会学の用語に、社会関係資本という概念があります。人と人とのつながりこそが私たちの幸福を高めるための財産だという考え方です。モノの豊かさだけでは人は幸せになれない、人とのつながりこそが大切だといわれても、そんなことは当たり前と思われるかもしれません。しかし、おそらく皆さんがそこでイメージするのは、たとえば絆のように強固なつながりではないでしょうか。
強い絆はたしかに大切なものに違いありません。しかしそれと同時に、見知らぬ新しい他者との出会いもまた魅力的なものです。社会学では、前者のつながりを結束型、後者のつながりを架橋型と呼んでいます。そして、現代のように変化の激しい社会においては、後者のつながりの比重が高まっていくと考えられています。皆さんの人生の可能性も、いま自分が生きている世界とは異なった世界をどれだけ知ることができるかに大きく左右されるはずです。
さて、以上の説明からもう想像はつくと思いますが、社会学とは大学の教員から教えてもらって学ぶ学問ではありません。世界という図形にどんな補助線を引いたらよいかを自分で考える学問です。これまで先達が残してくれた社会学の概念は多々ありますから、それらを紹介する大学の授業はあります。でも、結局どの補助線を使うべきかは自分で判断しなければなりません。
社会学を専攻できる大学では、それぞれが魅力的なカリキュラムを用意しています。参考までに私が籍を置く筑波大学が提供している科目の体系図を掲げておきますが、どんなカリキュラムを提供しているかは大学によって大きく違います。最近は、インターネットで検索すれば各大学の情報を入手することも容易ですから、ぜひ自分の関心のある大学で開設している社会学のカリキュラムを探してみてください。
他の学問分野と比べたとき、大学によってカリキュラムの相違が非常に大きいのも社会学の特徴のひとつです。ですから、複数の大学のカリキュラムをぜひ比較検討してみてください。いったいどこが違うのか、その違う理由はどこにあるのかを探っていくと、社会学が成立した歴史的背景や他の学問との接点も自ずと見えてくるはずです。その作業こそ、じつは社会学の事始めです。
社会学は、日常生活を縛っている思い込みから私たちを解き放ってくれます。その意味で、自己解放の学問です。誰か困っている人を救うための役にも立ちますが、まずは自分自身を自由にするためにこそ役に立つ学問です。皆さんが社会学を専攻したとき、どんな対象を扱うべきかは誰も教えてくれず、自分で探さなければならない理由もここにあります。自分にとって切実な問いを扱わなければ、それを自分に役立てようもないからです。
さあ、一度きりの人生を実り豊かなものとするために、自分の複眼を使って魅力的な社会学の補助線を見つけ出してください!
強い絆はたしかに大切なものに違いありません。しかしそれと同時に、見知らぬ新しい他者との出会いもまた魅力的なものです。社会学では、前者のつながりを結束型、後者のつながりを架橋型と呼んでいます。そして、現代のように変化の激しい社会においては、後者のつながりの比重が高まっていくと考えられています。皆さんの人生の可能性も、いま自分が生きている世界とは異なった世界をどれだけ知ることができるかに大きく左右されるはずです。
さて、以上の説明からもう想像はつくと思いますが、社会学とは大学の教員から教えてもらって学ぶ学問ではありません。世界という図形にどんな補助線を引いたらよいかを自分で考える学問です。これまで先達が残してくれた社会学の概念は多々ありますから、それらを紹介する大学の授業はあります。でも、結局どの補助線を使うべきかは自分で判断しなければなりません。
社会学を専攻できる大学では、それぞれが魅力的なカリキュラムを用意しています。参考までに私が籍を置く筑波大学が提供している科目の体系図を掲げておきますが、どんなカリキュラムを提供しているかは大学によって大きく違います。最近は、インターネットで検索すれば各大学の情報を入手することも容易ですから、ぜひ自分の関心のある大学で開設している社会学のカリキュラムを探してみてください。
他の学問分野と比べたとき、大学によってカリキュラムの相違が非常に大きいのも社会学の特徴のひとつです。ですから、複数の大学のカリキュラムをぜひ比較検討してみてください。いったいどこが違うのか、その違う理由はどこにあるのかを探っていくと、社会学が成立した歴史的背景や他の学問との接点も自ずと見えてくるはずです。その作業こそ、じつは社会学の事始めです。
社会学は、日常生活を縛っている思い込みから私たちを解き放ってくれます。その意味で、自己解放の学問です。誰か困っている人を救うための役にも立ちますが、まずは自分自身を自由にするためにこそ役に立つ学問です。皆さんが社会学を専攻したとき、どんな対象を扱うべきかは誰も教えてくれず、自分で探さなければならない理由もここにあります。自分にとって切実な問いを扱わなければ、それを自分に役立てようもないからです。
さあ、一度きりの人生を実り豊かなものとするために、自分の複眼を使って魅力的な社会学の補助線を見つけ出してください!

