何を学ぶ
政治、社会、言語、文化など、「国際関係」に関わる全ての事象が研究対象。人文・社会系の学知を総動員して、グローバル化する世界のありようの解明と、課題解決を目指す。

飯野 勝己(いいの かつみ)先生
静岡県立大学/国際関係学部/教授
1963年埼玉県生まれ。東北大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。専攻は哲学、言語哲学、コミュニケーション論。著書に『言語行為と発話解釈』(勁草書房)、『暴力をめぐる哲学』(共編著、晃洋書房)、訳書にオースティン『言語と行為』(講談社学術文庫)などがある。
国際情勢を掘り下げてみると……
「国際関係学」とは何だろうか。あるいは「国際関係学部」は国際関係学なる学問を学ぶ学部、シンプルにそう言えるのだろうか。
たとえば経済学部なら、「経済学」を学ぶ学部だと、まずは言えるだろう。専門的には枝分かれするものの、経済学という太い流れに束ねられる諸領域が、そこでは学ばれている。一方、文学部という学部(私もその出身だ)もあるが、そこでは「文学」なる学問が学ばれているわけではない。日本文学や英文学といった専攻はもちろんあるが、単なる文学という学問などそもそもないし、哲学、心理学、歴史学といったあまり「文学」らしくない諸領域も、文学部には伝統的に含まれてきた。
では、国際関係学部はどちらのタイプだろうか。後者に近い、というのが私の意見である。文学部が「文」の一文字に集約される多様な人文諸科学を含む学部であるのと同様に、国際関係学部は「国際関係」という言葉にまつわる多様な学問分野を含む学部なのである。
そのことを、「国際関係」的な事象に見てみよう。たとえば、長く泥沼の戦いが続いてきたシリア内戦。政府側と複数の反政府勢力の間での戦闘は14年におよび、大量の難民を生み出してきた。2024年末にアサド独裁政権がついに崩壊したものの、その後も予断を許さない状況が続いている。これに対して国際社会はずっと共同歩調を取れないできたが、その最大要因の一つとされるのが、一貫してアサド政権寄りだったロシアである。国連安全保障理事会ではことあるごとに拒否権を行使、アサド政権非難や軍事介入の決議案の多くを廃案に追い込んできた。その背景には、もともとロシアとシリアの間には密接な政治的・経済的関係があったことや、シリアがロシアの武器輸出の重要な市場になってきたことなどがあるようだ。
さて、こうした構図を見てあなたはどう思うだろうか。自国の利益のために罪のない人びとが殺され、大量の難民が発生するのを放置してきたロシアは許しがたい、というのがまずは大方の反応だろう。多くの人が同意するであろう正論だ。その後のウクライナへの侵攻も、こうしたロシア観をいっそう強めている。
しかし、問題を少し掘り下げてみよう。たとえば、一方でアメリカはどうか。アメリカはほぼ一貫して、アサド政権を批判してきた。だが、そもそもアメリカにシリアやロシアを非難する資格はあるのか。というのも、シリアの隣のイスラエルが先住のパレスチナ人たちを弾圧し、劣悪な環境に押し込めるのを、アメリカはずっと黙認してきたではないか。そして現在のガザ紛争においても、アメリカは変わらずイスラエル寄りの姿勢を示し続けている。
でも、たとえアメリカの姿勢が「人のことを言えない」ものだとしても、言ってきたこと自体は正しいのではないか? 人権を守り、民主主義を広めることは、誰にも文句が言えない「普遍的」理念なのでは? しかし、理念の正しさは必ずしも、それを押しつける行為を正当化しない。アフガニスタンやイラクなど、冷戦が終わったあと、アメリカを中心に先進諸国が行ってきた軍事介入や戦争行為はほぼすべて、こうした理念のもとに行われてきた。ということはもしかしたら、理念が「立派な」ものであればあるほど、その名のもとに容赦のない暴力の連鎖が発生する、そんな皮肉な構造が国際社会にはあるのではないか?
一つの国際問題を少し掘り下げるだけでも、いろいろな問いが浮かび上がってくるのを実感していただけただろうか。読み解く「深さ」のレベルに応じて、さまざまな問題が見えてくる。そしてそれらが、国際関係学部で学ぶことができる多様な学問分野に対応しているのである。
たとえば経済学部なら、「経済学」を学ぶ学部だと、まずは言えるだろう。専門的には枝分かれするものの、経済学という太い流れに束ねられる諸領域が、そこでは学ばれている。一方、文学部という学部(私もその出身だ)もあるが、そこでは「文学」なる学問が学ばれているわけではない。日本文学や英文学といった専攻はもちろんあるが、単なる文学という学問などそもそもないし、哲学、心理学、歴史学といったあまり「文学」らしくない諸領域も、文学部には伝統的に含まれてきた。
では、国際関係学部はどちらのタイプだろうか。後者に近い、というのが私の意見である。文学部が「文」の一文字に集約される多様な人文諸科学を含む学部であるのと同様に、国際関係学部は「国際関係」という言葉にまつわる多様な学問分野を含む学部なのである。
そのことを、「国際関係」的な事象に見てみよう。たとえば、長く泥沼の戦いが続いてきたシリア内戦。政府側と複数の反政府勢力の間での戦闘は14年におよび、大量の難民を生み出してきた。2024年末にアサド独裁政権がついに崩壊したものの、その後も予断を許さない状況が続いている。これに対して国際社会はずっと共同歩調を取れないできたが、その最大要因の一つとされるのが、一貫してアサド政権寄りだったロシアである。国連安全保障理事会ではことあるごとに拒否権を行使、アサド政権非難や軍事介入の決議案の多くを廃案に追い込んできた。その背景には、もともとロシアとシリアの間には密接な政治的・経済的関係があったことや、シリアがロシアの武器輸出の重要な市場になってきたことなどがあるようだ。
さて、こうした構図を見てあなたはどう思うだろうか。自国の利益のために罪のない人びとが殺され、大量の難民が発生するのを放置してきたロシアは許しがたい、というのがまずは大方の反応だろう。多くの人が同意するであろう正論だ。その後のウクライナへの侵攻も、こうしたロシア観をいっそう強めている。
しかし、問題を少し掘り下げてみよう。たとえば、一方でアメリカはどうか。アメリカはほぼ一貫して、アサド政権を批判してきた。だが、そもそもアメリカにシリアやロシアを非難する資格はあるのか。というのも、シリアの隣のイスラエルが先住のパレスチナ人たちを弾圧し、劣悪な環境に押し込めるのを、アメリカはずっと黙認してきたではないか。そして現在のガザ紛争においても、アメリカは変わらずイスラエル寄りの姿勢を示し続けている。
でも、たとえアメリカの姿勢が「人のことを言えない」ものだとしても、言ってきたこと自体は正しいのではないか? 人権を守り、民主主義を広めることは、誰にも文句が言えない「普遍的」理念なのでは? しかし、理念の正しさは必ずしも、それを押しつける行為を正当化しない。アフガニスタンやイラクなど、冷戦が終わったあと、アメリカを中心に先進諸国が行ってきた軍事介入や戦争行為はほぼすべて、こうした理念のもとに行われてきた。ということはもしかしたら、理念が「立派な」ものであればあるほど、その名のもとに容赦のない暴力の連鎖が発生する、そんな皮肉な構造が国際社会にはあるのではないか?
一つの国際問題を少し掘り下げるだけでも、いろいろな問いが浮かび上がってくるのを実感していただけただろうか。読み解く「深さ」のレベルに応じて、さまざまな問題が見えてくる。そしてそれらが、国際関係学部で学ぶことができる多様な学問分野に対応しているのである。
多様性の世界
そうした「深さ」の表層のレベルには、外交とはいかなるものかとか、国連の機能とは、といった問いが広がっている。これらは「国際政治学」や「安全保障論」といった学問分野の対象だ。2番目のレベルから見えてくるのは、国際社会におけるアメリカのふるまいの歴史や役割、中東問題の複雑な経緯といった問い。「現代アメリカ論」や「中東アフリカ論」といった学問が、これらに取り組んでいる。そして3番目の最深レベルでは、国際社会を貫徹する理念のありようや、それらをめぐるさまざまな力(権力や暴力も含まれる)のからみ合いといった、抽象的かつ根源的な問題が見出される。こうしたことについて考えるのが、「国際思想史」や「グローバル倫理学」といった分野である。
さて、今いくつかの学問や研究分野の名前を挙げてきたが、これらの多くは、私が所属する静岡県立大国際関係学部の授業科目や、同僚の教員たちの研究分野の名称から引いたものである(ただし文脈に合わせて一部改変した)。
より一般的で伝統的な学問分野を挙げるなら、政治学、経済学、法学、社会学、哲学、倫理学、思想史、言語学、歴史学、文化人類学、日本文学や英文学などの文学研究、世界各地の地域研究などなど……。このように多様な領域の研究者たちが集まって、それぞれの切り口からそれぞれの問題にアプローチしているのが国際関係学という分野であり、国際関係学部という学部なのである。
このように、「国際関係学」という学問がドンとあって、それを研究・教育するのが国際関係学部なのではない。それはむしろ、多種多様な分野をおおらかに盛り付ける器のようなものであり、その中身はまさに、多様性をきわめる人間社会の写し絵そのものだといえる。そうした多様性を、どのように具体的な学科やカリキュラムに編成するかについてはもちろん無数の選択肢があり、大学ごとにこれまた多種多様である。ここではあくまで一例として、静岡県立大のものを挙げておこう。上の図のように、大きく「国際関係学科」と「国際言語文化学科」の二つの学科に分かれている。しいていうなら前者は社会科学寄り、後者は人文科学寄りだが、教員の研究にしろ、学生たちの学びにしろ、枠にとらわれない多様性こそが強みなのである。
さて、今いくつかの学問や研究分野の名前を挙げてきたが、これらの多くは、私が所属する静岡県立大国際関係学部の授業科目や、同僚の教員たちの研究分野の名称から引いたものである(ただし文脈に合わせて一部改変した)。
より一般的で伝統的な学問分野を挙げるなら、政治学、経済学、法学、社会学、哲学、倫理学、思想史、言語学、歴史学、文化人類学、日本文学や英文学などの文学研究、世界各地の地域研究などなど……。このように多様な領域の研究者たちが集まって、それぞれの切り口からそれぞれの問題にアプローチしているのが国際関係学という分野であり、国際関係学部という学部なのである。
このように、「国際関係学」という学問がドンとあって、それを研究・教育するのが国際関係学部なのではない。それはむしろ、多種多様な分野をおおらかに盛り付ける器のようなものであり、その中身はまさに、多様性をきわめる人間社会の写し絵そのものだといえる。そうした多様性を、どのように具体的な学科やカリキュラムに編成するかについてはもちろん無数の選択肢があり、大学ごとにこれまた多種多様である。ここではあくまで一例として、静岡県立大のものを挙げておこう。上の図のように、大きく「国際関係学科」と「国際言語文化学科」の二つの学科に分かれている。しいていうなら前者は社会科学寄り、後者は人文科学寄りだが、教員の研究にしろ、学生たちの学びにしろ、枠にとらわれない多様性こそが強みなのである。
「グローバル」の二面性
さて、国際関係といえば「グローバル」や「グローバリゼーション(グローバル化)」。もしも10年単位の流行語大賞があったなら、2010年代あたりの大賞に選ばれたのではないかというくらい、ここ20年あまりで急速に浸透し、あらゆる場面で口にされるようになった言葉だ。
しかし同時に、これほど二面性をもって受け取られる言葉も珍しい。一方で「グローバル」は、先進性や国際ビジネスといったイメージを伴って、とてもポジティブなニュアンスで語られる。ひところは、電車に乗れば「グローバルに飛躍する」企業の広告や、「グローバルに活躍しよう」と謳(うた)う英会話教室の宣伝コピーがいくつも目についた。また、いわゆる「グローバル系」の大学や学部も一時期盛んに新設された。
しかし、アカデミックな領域での「グローバル」はむしろ逆で、よく言われることはあまりない。グローバル化をどう説明するかは難しい問題だが、ここではごくシンプルに「枠が希薄になること」ととらえよう。国境やそれぞれの言語・文化といった従来の「枠」がどんどん薄れ、世界がひとつながりの球体(globe)になりつつある、というイメージだ。枠はある面では制約でもあるが、私たちを保護してくれる繭のようなものでもある。それに、たとえば「私は日本人である」といったアイデンティティ(自分は何者か、という意味づけ)を与えてくれるのも、こうした枠だ。それが取り払われるということは、一人ひとりの人間が吹きさらしの荒野に生身でさらされるようなものである。ある者はそのなかで力強く生きていくだろうが、同時に多くの者が斃(たお)れるだろう。アイデンティティ確保のハードルも上がり、国家や国民といった大きな理念に安易にすがる動きも目につく。
こうしたなりゆきの果てに、人間社会はひどくすさんだものになっていくに違いない、いやもう既にかなりすさんでいる……。多くの研究者にとって「グローバル」とはこのような、過酷さとか野蛮化といったイメージを伴って語られる「問題」なのである。
しかし同時に、これほど二面性をもって受け取られる言葉も珍しい。一方で「グローバル」は、先進性や国際ビジネスといったイメージを伴って、とてもポジティブなニュアンスで語られる。ひところは、電車に乗れば「グローバルに飛躍する」企業の広告や、「グローバルに活躍しよう」と謳(うた)う英会話教室の宣伝コピーがいくつも目についた。また、いわゆる「グローバル系」の大学や学部も一時期盛んに新設された。
しかし、アカデミックな領域での「グローバル」はむしろ逆で、よく言われることはあまりない。グローバル化をどう説明するかは難しい問題だが、ここではごくシンプルに「枠が希薄になること」ととらえよう。国境やそれぞれの言語・文化といった従来の「枠」がどんどん薄れ、世界がひとつながりの球体(globe)になりつつある、というイメージだ。枠はある面では制約でもあるが、私たちを保護してくれる繭のようなものでもある。それに、たとえば「私は日本人である」といったアイデンティティ(自分は何者か、という意味づけ)を与えてくれるのも、こうした枠だ。それが取り払われるということは、一人ひとりの人間が吹きさらしの荒野に生身でさらされるようなものである。ある者はそのなかで力強く生きていくだろうが、同時に多くの者が斃(たお)れるだろう。アイデンティティ確保のハードルも上がり、国家や国民といった大きな理念に安易にすがる動きも目につく。
こうしたなりゆきの果てに、人間社会はひどくすさんだものになっていくに違いない、いやもう既にかなりすさんでいる……。多くの研究者にとって「グローバル」とはこのような、過酷さとか野蛮化といったイメージを伴って語られる「問題」なのである。
グローバル・スキルとグローバル・リテラシー
では、そんな世界に直面して、国際関係学部が果たすべき役割はどこにあるのか。グローバルが両極端の二面性を持つのだから、それに対応した「二正面作戦」で行くべきだ、というのが私の考えである。グローバルのポジティブ面とネガティブ面それぞれに対応した教育・研究を行っていくこと。ここでは仮に前者を「グローバル・スキル」、後者を「グローバル・リテラシー」と呼ぼう。
グローバル化が避けがたい流れであるならば、それに対応するグローバル・スキルを身につける必要がある。英語をはじめとした言語力、それを土台にしたコミュニケーション力、それらを育む留学などの取り組み……。こうしたものはどこの国際系学部でも重視されているし、もちろん静岡県立大でも盛んである。ネイティブの教員陣を中心にした語学授業はとても充実しているし、各地の提携校をはじめとした留学も盛んだ。海外からの留学生も多く在籍するので、学内でも国際的なコミュニケーションを交わすことができる。そうした取り組みや環境を通じて、グローバルな荒野で生きていくスキルを向上させる、これが国際関係学部の第一の任務だ。
しかしその一方で、グローバル・リテラシーも重要だと思う。これはメディアを批判的に読み解く能力を指す「メディア・リテラシー」からの転用で、「グローバル化を批判的に読み解く能力」を言い表すための、ここだけの造語だ。既に述べたように、現在進行中のグローバル化は決していいことばかりではなく、むしろ多くの人の生をむしばむ危険性をはらんでいる。それがどんな危険なのか、どのような場面でどのように発現するのか、それを防ぐためにはどうしたらいいのか。こうしたことをさまざまな専門分野の切り口から学び、単にスキルを学んだだけでは自分でも知らずにふるってしまうかもしれない「グローバル化の暴力」をできるだけ減らすこと。そして、これからの社会のルールや倫理、もっといえば「共に生きること」のあるべき姿を模索していくこと。スキル面と同じくらいの熱量をもって、こうしたリテラシーについて考え、議論し、教えていくのもまた、国際関係学という大きな器の、そしてその実践の場である国際関係学部の、大切な役割なのだ。
もちろん多様性を持ち味とする国際関係学部だから、どんな興味関心からも入口はある。取り組みがいのある素材を盛りつけて、私たちはみなさんを待っている。
グローバル化が避けがたい流れであるならば、それに対応するグローバル・スキルを身につける必要がある。英語をはじめとした言語力、それを土台にしたコミュニケーション力、それらを育む留学などの取り組み……。こうしたものはどこの国際系学部でも重視されているし、もちろん静岡県立大でも盛んである。ネイティブの教員陣を中心にした語学授業はとても充実しているし、各地の提携校をはじめとした留学も盛んだ。海外からの留学生も多く在籍するので、学内でも国際的なコミュニケーションを交わすことができる。そうした取り組みや環境を通じて、グローバルな荒野で生きていくスキルを向上させる、これが国際関係学部の第一の任務だ。
しかしその一方で、グローバル・リテラシーも重要だと思う。これはメディアを批判的に読み解く能力を指す「メディア・リテラシー」からの転用で、「グローバル化を批判的に読み解く能力」を言い表すための、ここだけの造語だ。既に述べたように、現在進行中のグローバル化は決していいことばかりではなく、むしろ多くの人の生をむしばむ危険性をはらんでいる。それがどんな危険なのか、どのような場面でどのように発現するのか、それを防ぐためにはどうしたらいいのか。こうしたことをさまざまな専門分野の切り口から学び、単にスキルを学んだだけでは自分でも知らずにふるってしまうかもしれない「グローバル化の暴力」をできるだけ減らすこと。そして、これからの社会のルールや倫理、もっといえば「共に生きること」のあるべき姿を模索していくこと。スキル面と同じくらいの熱量をもって、こうしたリテラシーについて考え、議論し、教えていくのもまた、国際関係学という大きな器の、そしてその実践の場である国際関係学部の、大切な役割なのだ。
もちろん多様性を持ち味とする国際関係学部だから、どんな興味関心からも入口はある。取り組みがいのある素材を盛りつけて、私たちはみなさんを待っている。

