何を学ぶ
一粒のコメから社会の成り立ちを読み解く。全てをお金に換算はできないことを認識しつつ、食料、農業、環境の経済的分析を通じて、目指すべき社会を考える。

安藤 光義(あんどう みつよし)先生
東京大学/大学院農学生命科学研究科/教授
1966年、神奈川県生まれ。東京大学大学院農学系研究科博士課程修了。茨城大学農学部助手、同助教授を経て現職。専門は農政学。著書に『構造政策の理念と現実』『北関東農業の構造』『日本農業の構造変動』など。
農業経済学とは
日本の敗戦から8年後の1953年、農業経済学者たちの手によって一冊の本が出版された。『貧しさからの解放』と題されたこの本は一般の人びとにも広く読まれた。
農地改革によって日本の農家は、高い小作料から解放された。それでもなお農家は、貧しかった。当時、農家の貧しさこそが、農業経済学にとって最大の研究課題であった。
明治維新から間もない1870年代、「少年よ、大志をいだけ」のクラーク博士で知られる札幌農学校などの農学校が設立され、欧米農学導入の窓口となった。日本の近代農学のはじまりである。この当時農業経済学は、農学から未分化の状態であった。
日本経済は、19世紀末の産業革命を経て、第一次世界大戦期には重化学工業化を成し遂げた。その間、農業生産も順調に伸びたものの、工業化のスピードには遅れを取った。1918年に米騒動が発生する一方で、1920年代には、都市と農村の間で所得格差が拡大した。この1920年代こそが、農業経済学という学問が成立した時期であった。日本の農業経済学は、その成立以来1950年代まで、農家の貧しさという問題に取り組んできたのである。
だが、1960年代になると、米や麦の生産者価格を支持する政府の政策が拡充され、また高度成長とともに農外就業機会が広がり、農家の兼業化が進んだ。これによって、農家と農家以外の世帯の所得とが釣り合うようになった。農家の「貧しさからの解放」が実現したのである。
この後、日本の農業経済学は、新たな課題に直面する。産業としての農業の未確立という問題に加え、1970年代以降、日本経済は本格的な国際化の波にさらされ、農業経済学においても国際的な視点が求められるようになったからである。
一つは、農産物貿易の自由化への対応である。「経済大国」となった日本は貿易自由化を求められた。WTO協定やTPP、RCEPはその一例である。また、食生活が変化して肉類・乳製品の消費が増えた。その結果、食料自給率の低下や輸入食料品の安全問題などの新たな問題が発生した。これらの問題への対応が、農業経済学の重要な論点となってくる。
もう一つは、世界的なレベルでの農村の貧困問題と資源・環境問題である。発展途上国では、国民の多数を占める農家世帯員が貧困に直面している。それらの地域は森林破壊・水不足などの深刻な資源・環境問題にもさらされている。農業経済学は、こうした地域における持続可能な農村開発(SDGs)という課題にも挑戦している。
さらに、近年は食料安全保障が大きな問題となっており、食料自給率の向上が課題となっている。農業経済学の貢献がこれまで以上に求められているといえる。
農地改革によって日本の農家は、高い小作料から解放された。それでもなお農家は、貧しかった。当時、農家の貧しさこそが、農業経済学にとって最大の研究課題であった。
明治維新から間もない1870年代、「少年よ、大志をいだけ」のクラーク博士で知られる札幌農学校などの農学校が設立され、欧米農学導入の窓口となった。日本の近代農学のはじまりである。この当時農業経済学は、農学から未分化の状態であった。
日本経済は、19世紀末の産業革命を経て、第一次世界大戦期には重化学工業化を成し遂げた。その間、農業生産も順調に伸びたものの、工業化のスピードには遅れを取った。1918年に米騒動が発生する一方で、1920年代には、都市と農村の間で所得格差が拡大した。この1920年代こそが、農業経済学という学問が成立した時期であった。日本の農業経済学は、その成立以来1950年代まで、農家の貧しさという問題に取り組んできたのである。
だが、1960年代になると、米や麦の生産者価格を支持する政府の政策が拡充され、また高度成長とともに農外就業機会が広がり、農家の兼業化が進んだ。これによって、農家と農家以外の世帯の所得とが釣り合うようになった。農家の「貧しさからの解放」が実現したのである。
この後、日本の農業経済学は、新たな課題に直面する。産業としての農業の未確立という問題に加え、1970年代以降、日本経済は本格的な国際化の波にさらされ、農業経済学においても国際的な視点が求められるようになったからである。
一つは、農産物貿易の自由化への対応である。「経済大国」となった日本は貿易自由化を求められた。WTO協定やTPP、RCEPはその一例である。また、食生活が変化して肉類・乳製品の消費が増えた。その結果、食料自給率の低下や輸入食料品の安全問題などの新たな問題が発生した。これらの問題への対応が、農業経済学の重要な論点となってくる。
もう一つは、世界的なレベルでの農村の貧困問題と資源・環境問題である。発展途上国では、国民の多数を占める農家世帯員が貧困に直面している。それらの地域は森林破壊・水不足などの深刻な資源・環境問題にもさらされている。農業経済学は、こうした地域における持続可能な農村開発(SDGs)という課題にも挑戦している。
さらに、近年は食料安全保障が大きな問題となっており、食料自給率の向上が課題となっている。農業経済学の貢献がこれまで以上に求められているといえる。
農業経済学の特徴
まず、工場で働く労働者のことを考えてみよう。労働者は、自宅から工場に通勤して、経営者(資本家)の所有物である機械や道具を用いながら、経営者の経営方針にしたがって生産活動を行い、その対価として賃金を得ている。
農業の生産過程は、それとはずいぶんと異なる。日本を含めた世界の多くの地域では、農業は主として農家によって担われている。農家は、何を生産し、いつどこに販売するのかを自ら判断する。それに必要な機械や施設は、自らが取得する。そのための資金は、自ら調達する。農家は経営者であり資本家なのである。他方で農家は、自ら労働を行う労働者でもある。また、生産と生活が同一の空間で営まれており、農家の住む村落では、生産と生活のための協同関係が形成されている。
分析対象である農家のこのような特性が、農業経済学という学問の枠組みを特徴づけている。以下、3点にわたって特徴点を挙げてみよう。
農業経済学は、その名の通り経済学を基礎としており、自然科学に基礎を置く農学系の分野にあってはユニークな存在である。他方で、経済学の他分野と比べると農学など自然科学の知見に対する関心が高い。これは、農家が、技術的な課題と経営的・経済的な課題の両者に常に直面していることの反映である。農学と経済学という学際的な領域を対象としている点が、農業経済学の第一の特徴である。
農家は、家族を単位に生産と生活を行い、かつ村落を領域として協同関係を築いてきた。今日でも、農村では都市生活に比べると伝統的な協同関係が保たれている。農業経済学は、社会学や法学など経済学以外の社会科学分野、さらには歴史学や民俗学など人文科学分野の研究手法を導入して、こうした協同関係に関する分析を深めてきた。社会科学・人文科学の研究手法を幅広く取り入れている点が第二の特徴である。
第三には、政策との関わりの緊密さが挙げられる。農家は独立した主体として経営と生活を営んでいるが、政府の農業政策、社会政策あるいは地域政策などから直接、間接に影響を受ける存在でもある。また、農産物貿易や関税など国際的な政策からの影響も大きい。農業経済学は、農家に影響を及ぼすさまざまな政策に対して分析を行い、より合理的で公正な政策を提示することを課題とする、政策科学という側面も強く持っている。
農業経済学は農家以外にも分析の対象を広げてきた。近年、企業や団体による新しいスタイルの農業経営が登場している。それらの企業・団体は、若者の新規就農の場としても注目されている。こうした分野に関しては、経営学の視点からのアプローチが重要になっている。
また、農家や企業・団体が生産した農産物が流通・加工されて最終的に消費されるまでの過程を一つのシステム(フードサプライチェーン)としてとらえ、それを総体的に分析することも農業経済学の重要な課題である。BSE問題や原発事故を契機として食品の安全性に関心が集まり、こうした研究が脚光を浴びている。さらに、近年、農産物を調理して食べるという行為を通じて、農産物の生産・流通の過程を学ぶ「食育」教育という分野も注目されている。
そして、農業経済学は環境問題とも密接な関わりを持っている。適切な技術と経営の下で営まれた農業は、環境の維持にも貢献している。しかし、過剰な農地開発や不適切な肥料投下や水利用などによって、農業は環境を破壊する要因にもなる。有機農業など持続可能な農業を成立させるための条件を明らかにして、地球規模での環境・資源の保全を図るという課題においても、農業経済学が果たすべき役割は大きい。
農業の生産過程は、それとはずいぶんと異なる。日本を含めた世界の多くの地域では、農業は主として農家によって担われている。農家は、何を生産し、いつどこに販売するのかを自ら判断する。それに必要な機械や施設は、自らが取得する。そのための資金は、自ら調達する。農家は経営者であり資本家なのである。他方で農家は、自ら労働を行う労働者でもある。また、生産と生活が同一の空間で営まれており、農家の住む村落では、生産と生活のための協同関係が形成されている。
分析対象である農家のこのような特性が、農業経済学という学問の枠組みを特徴づけている。以下、3点にわたって特徴点を挙げてみよう。
農業経済学は、その名の通り経済学を基礎としており、自然科学に基礎を置く農学系の分野にあってはユニークな存在である。他方で、経済学の他分野と比べると農学など自然科学の知見に対する関心が高い。これは、農家が、技術的な課題と経営的・経済的な課題の両者に常に直面していることの反映である。農学と経済学という学際的な領域を対象としている点が、農業経済学の第一の特徴である。
農家は、家族を単位に生産と生活を行い、かつ村落を領域として協同関係を築いてきた。今日でも、農村では都市生活に比べると伝統的な協同関係が保たれている。農業経済学は、社会学や法学など経済学以外の社会科学分野、さらには歴史学や民俗学など人文科学分野の研究手法を導入して、こうした協同関係に関する分析を深めてきた。社会科学・人文科学の研究手法を幅広く取り入れている点が第二の特徴である。
第三には、政策との関わりの緊密さが挙げられる。農家は独立した主体として経営と生活を営んでいるが、政府の農業政策、社会政策あるいは地域政策などから直接、間接に影響を受ける存在でもある。また、農産物貿易や関税など国際的な政策からの影響も大きい。農業経済学は、農家に影響を及ぼすさまざまな政策に対して分析を行い、より合理的で公正な政策を提示することを課題とする、政策科学という側面も強く持っている。
農業経済学は農家以外にも分析の対象を広げてきた。近年、企業や団体による新しいスタイルの農業経営が登場している。それらの企業・団体は、若者の新規就農の場としても注目されている。こうした分野に関しては、経営学の視点からのアプローチが重要になっている。
また、農家や企業・団体が生産した農産物が流通・加工されて最終的に消費されるまでの過程を一つのシステム(フードサプライチェーン)としてとらえ、それを総体的に分析することも農業経済学の重要な課題である。BSE問題や原発事故を契機として食品の安全性に関心が集まり、こうした研究が脚光を浴びている。さらに、近年、農産物を調理して食べるという行為を通じて、農産物の生産・流通の過程を学ぶ「食育」教育という分野も注目されている。
そして、農業経済学は環境問題とも密接な関わりを持っている。適切な技術と経営の下で営まれた農業は、環境の維持にも貢献している。しかし、過剰な農地開発や不適切な肥料投下や水利用などによって、農業は環境を破壊する要因にもなる。有機農業など持続可能な農業を成立させるための条件を明らかにして、地球規模での環境・資源の保全を図るという課題においても、農業経済学が果たすべき役割は大きい。
農業経済学のカリキュラム
上でも述べたように、農業経済学の基礎には経済学と農学がある。したがって、高校生にとっては、文系・理系のいずれからでも進学が可能な研究分野である。言い換えれば、文系の学生にとっては農学など自然科学を、理系の学生にとっては経済学など社会科学を新たに学習することが必須となる。戸惑いもあるが、それだけにチャレンジングな学問領域であるといえるのではないだろうか。
通例では、入学後に農学や経済学の基礎を学んだ後で、農業経済学の主要な研究領域について学習を進める。その間に、社会学、法学などの社会科学の関連分野に関する基礎的な学習も、あわせて進めるのがよい。
こうした講義科目のほかに、農業経済学分野の学科では、ゼミナール形式の演習が盛んである。教員が少人数の学生と緊密な関係のもとで進められる双方向型の授業という点で、講義科目とは異なっている。
フィールドワーク実習もこの分野に特徴的な科目である。特定の農村地域を選定して現地調査を行い、その成果を報告書としてまとめることになる。まず、対象地域の歴史や産業などに関して予備的な学習を行う。その後、農家の経営や生活などに関する質問表を設計し、農家ヒアリングを行う。行政機関や農協、土地改良区などの農業団体で聞き取りを行うこともある。最後に、聞き取り結果をデータベース化して分析し、報告書にまとめる。自らの仮説に基づいて質問表を設計し、それを実証するという実践的な分析手法を学習できる機会であり、キャンパスでは経験できない農村や農家の実態に触れるよい機会でもある。
最終学年では卒業論文を作成する。学生各自がテーマを探し出して研究を行い、論文として取りまとめるのである。近年では、有機農業、再生可能エネルギー、食料安全保障、食品の安全安心、食育、中山間地問題、地域ブランド戦略、農業法人経営、田園回帰、新規就農、企業の農業参入、スマート農業など、多彩な研究テーマが取り上げられている。大学での学習の集大成として、貴重な経験となるであろう。
農業経済学分野のカリキュラムは取り扱う領域が広く、履修科目選択の自由度も高い。一人ひとりの関心に応じて学習することが可能となっている。
卒業後の進路先もまた、官公庁、農業団体、金融機関、商社、食品メーカー、大学院進学など多様である。
通例では、入学後に農学や経済学の基礎を学んだ後で、農業経済学の主要な研究領域について学習を進める。その間に、社会学、法学などの社会科学の関連分野に関する基礎的な学習も、あわせて進めるのがよい。
こうした講義科目のほかに、農業経済学分野の学科では、ゼミナール形式の演習が盛んである。教員が少人数の学生と緊密な関係のもとで進められる双方向型の授業という点で、講義科目とは異なっている。
フィールドワーク実習もこの分野に特徴的な科目である。特定の農村地域を選定して現地調査を行い、その成果を報告書としてまとめることになる。まず、対象地域の歴史や産業などに関して予備的な学習を行う。その後、農家の経営や生活などに関する質問表を設計し、農家ヒアリングを行う。行政機関や農協、土地改良区などの農業団体で聞き取りを行うこともある。最後に、聞き取り結果をデータベース化して分析し、報告書にまとめる。自らの仮説に基づいて質問表を設計し、それを実証するという実践的な分析手法を学習できる機会であり、キャンパスでは経験できない農村や農家の実態に触れるよい機会でもある。
最終学年では卒業論文を作成する。学生各自がテーマを探し出して研究を行い、論文として取りまとめるのである。近年では、有機農業、再生可能エネルギー、食料安全保障、食品の安全安心、食育、中山間地問題、地域ブランド戦略、農業法人経営、田園回帰、新規就農、企業の農業参入、スマート農業など、多彩な研究テーマが取り上げられている。大学での学習の集大成として、貴重な経験となるであろう。
農業経済学分野のカリキュラムは取り扱う領域が広く、履修科目選択の自由度も高い。一人ひとりの関心に応じて学習することが可能となっている。
卒業後の進路先もまた、官公庁、農業団体、金融機関、商社、食品メーカー、大学院進学など多様である。

