何を学ぶ
子どもの頃は教えられなくても絵を描く。ものを作る。大学では、感動やイメージといった実体がないものを芸術という形で世に示すという誰でも自然に行う行為を学問として学ぶ。

海老 洋(えび よう)先生
東京藝術大学/美術学部/教授
1965年、山口県出身。東京藝術大学大学院博士後期課程美術専攻(日本画)・単位取得退学。広島市立大学教授を経て現職。専門は日本画。美術団体・創画会会員。
美術と技術
子どもの頃は鉛筆があれば何か描く。素材があれば手を使って形を作る。上手も下手も関係ない。ところが成長すると人と比べて自分の作品がつたないと感じたり、何を描いても、似ている・似ていないが気になったりする。図工や美術の教科書の同世代の人が創った巧みな参考作品に驚嘆する。創作者の誰もが思う。もっと上手くなりたい。もっと技術があれば……。
小中高校、予備校と美術を習うたびに画材は更新され技術は向上する。でもどこまでいったら自分が満足する作品が作れるのだろう。大学でもっと高い技術を学んだら答えが見えるのか。実はアートという言葉が「何かを複製するための“技術”」と同義だった時代もある。
美術作品を“写真以前・以後”という分類をすることがある。写真以前の視覚情報伝達は手作業の創作物に頼っていた。人物や動植物の外見的特徴、宗教のイメージ、知識や技術。これらを直感的に伝えるには目で見え、手で触れる手段が便利だ。絵や立体物で個人の視覚情報や知識を他者に伝える。写真以前の絵画、彫刻にはこの記録、伝達の役割が大きく、その技術を進化させていった。写真が発明され複製も可能となり、正確で大量の伝達が実現したことで情報としての価値は絵画、彫刻よりも高くなりその機能は写真へと移行していく。
その写真も進化する。大量に複製して頒布、掲示する印刷技術が発達し、写真は動画へと進化。それらを電波で発信することでどこでも視聴できるようになり、画像、映像自身は芸術表現そのものとなっていく。インターネットの普及以降は静止画像であれ、動画であれ瞬時に世界中の人と共有することができる。写真技術の発明以降、急速に発達したビジュアルイメージの伝播方法の発展は芸術表現の形も大きく変化させた。このように美術はテクノロジーと切り離せない。でも美術の到達点は技術の最高点だろうか。
小中高校、予備校と美術を習うたびに画材は更新され技術は向上する。でもどこまでいったら自分が満足する作品が作れるのだろう。大学でもっと高い技術を学んだら答えが見えるのか。実はアートという言葉が「何かを複製するための“技術”」と同義だった時代もある。
美術作品を“写真以前・以後”という分類をすることがある。写真以前の視覚情報伝達は手作業の創作物に頼っていた。人物や動植物の外見的特徴、宗教のイメージ、知識や技術。これらを直感的に伝えるには目で見え、手で触れる手段が便利だ。絵や立体物で個人の視覚情報や知識を他者に伝える。写真以前の絵画、彫刻にはこの記録、伝達の役割が大きく、その技術を進化させていった。写真が発明され複製も可能となり、正確で大量の伝達が実現したことで情報としての価値は絵画、彫刻よりも高くなりその機能は写真へと移行していく。
その写真も進化する。大量に複製して頒布、掲示する印刷技術が発達し、写真は動画へと進化。それらを電波で発信することでどこでも視聴できるようになり、画像、映像自身は芸術表現そのものとなっていく。インターネットの普及以降は静止画像であれ、動画であれ瞬時に世界中の人と共有することができる。写真技術の発明以降、急速に発達したビジュアルイメージの伝播方法の発展は芸術表現の形も大きく変化させた。このように美術はテクノロジーと切り離せない。でも美術の到達点は技術の最高点だろうか。
大学美術教育とは
日本での美術教育は明治期に始まる。それまでの日本には美術を学問とする習慣はなく、創作物は手本を模写して練習する技術の伝承があるのみだった。始まったばかりの美術教育は西洋からの借り物で芸術というより画法、透視図法といった、技術的指導が主であった。そのとき日本は芸術という新しい概念自体を学んだが、程なく元々日本に存在した“美”を再認識しながら独自の美意識を発展させ、そして独自の芸術を作り上げようと世界中からさまざまな表現を吸収していく。他の学問に比べてまだ若い美術教育という分野は、この150年間だけでも驚くほど変化した人類の“美”の表現に対応しようと日々形を変え続けている。
現代の大学美術教育について話そう。各領域では伝統的な技法から新しい技術での表現まで非常に多彩である。デザイン・工芸・現代表現領域だけでなく、伝統的技法が数多く存在する絵画(日本画、版画、壁画等)、彫刻(石、木材、金属等)、工芸(陶磁、漆器、金工等)分野でも同様で、伝統の継承とともに新しい表現に貪欲に取り組んでいる。純粋芸術の領域である彫刻表現の一つとして3Dプリンターの実習が存在することもすでに一般的だが、同じ純粋美術である日本画という伝統的側面の強い専攻でもデジタルツールが制作に浸透しているのを実感する。以前は手描きのスケッチや下図を見ることが普通であったが、現在はタブレット上の画像を用いての指導も少なくない。伝統的な絵画技法とデジタル技術、一見相容れないようにも感じるが、現場では自然に受け入れられている。
さらに進んで、作家自身による手作業の必要を感じない人もいる。絵画もCGも、木彫も3Dプリンターも同価値で、同じ品質で創作すること、プロデュースすることが美術教育の到達点と考える人もいる。
無論、手で制作しても機械で制作しても、観覧者が見出す美の価値において絵画、彫刻、工芸、デザイン、映像、全て差異はない。それに、そこにある“美”はカテゴリーや役割分担に押し込められるものではない。かつて絵画や彫刻が写真や映像の登場とともに、記録や正確性から解き放たれて純粋な美の追求を発展させたように〈欄外の(注)参照〉、その写真や映像もまた、記録や娯楽、報道の役目から飛び出して現代の芸術表現として大きな一端を担っている。デザイン、工芸、建築物、イラスト、漫画、ゲーム等々、目の前のあらゆる物に宿る“美”たちは、人が想定した領域や役割を軽々と乗り越えて、新しい芸術形態を創り出している。そしてコンピューターとネットという新しい道具が、電子マネー、映像作品、音楽作品等、“所有”の概念をも変えることで、それぞれの美術領域は目的や道具としての“リアルな存在”からも解き放たれて新たな芸術性を確立し続けている。美術は社会概念やテクノロジーによって急速に大きく形を変える。
しかし、人は手仕事による表現をやめない。紙や布を支持体とする絵画はデジタルの平面表現に移行するという人もいるが、今現在も多くの作家や美大生がカンバスや紙、石、木、金属にそれぞれの道具を手に向き合っている。いまだ多くの美術大学で素描、デッサンが入学試験として設定されていることを考えてみよう。
デッサンなどの基礎学習は単純な手先だけの反復練習ではない。美術の基礎学習は、ものの見方、考え方、その伝え方の練習である。感覚器、脳、神経、骨格や筋肉……全身を使った入力と出力の練習だといえる。見る→形を理解する→描画する、という一連の作業はデジタル制御のみで可能なのかもしれない。しかし、重要なのは“美”の存在だ。
“美”の創造に到達する道は、外部からの刺激が自分の内部を経由して外部への表現欲求となるまでの道だ。きっとその道は一つではない。美術大学の存在意味とは“美しい”という実体のないものを創り出すための楽な最短ルートを研究することではなく、そのアプローチは無限にあるということを学生に気づかせることにある。
現代の大学美術教育について話そう。各領域では伝統的な技法から新しい技術での表現まで非常に多彩である。デザイン・工芸・現代表現領域だけでなく、伝統的技法が数多く存在する絵画(日本画、版画、壁画等)、彫刻(石、木材、金属等)、工芸(陶磁、漆器、金工等)分野でも同様で、伝統の継承とともに新しい表現に貪欲に取り組んでいる。純粋芸術の領域である彫刻表現の一つとして3Dプリンターの実習が存在することもすでに一般的だが、同じ純粋美術である日本画という伝統的側面の強い専攻でもデジタルツールが制作に浸透しているのを実感する。以前は手描きのスケッチや下図を見ることが普通であったが、現在はタブレット上の画像を用いての指導も少なくない。伝統的な絵画技法とデジタル技術、一見相容れないようにも感じるが、現場では自然に受け入れられている。
さらに進んで、作家自身による手作業の必要を感じない人もいる。絵画もCGも、木彫も3Dプリンターも同価値で、同じ品質で創作すること、プロデュースすることが美術教育の到達点と考える人もいる。
無論、手で制作しても機械で制作しても、観覧者が見出す美の価値において絵画、彫刻、工芸、デザイン、映像、全て差異はない。それに、そこにある“美”はカテゴリーや役割分担に押し込められるものではない。かつて絵画や彫刻が写真や映像の登場とともに、記録や正確性から解き放たれて純粋な美の追求を発展させたように〈欄外の(注)参照〉、その写真や映像もまた、記録や娯楽、報道の役目から飛び出して現代の芸術表現として大きな一端を担っている。デザイン、工芸、建築物、イラスト、漫画、ゲーム等々、目の前のあらゆる物に宿る“美”たちは、人が想定した領域や役割を軽々と乗り越えて、新しい芸術形態を創り出している。そしてコンピューターとネットという新しい道具が、電子マネー、映像作品、音楽作品等、“所有”の概念をも変えることで、それぞれの美術領域は目的や道具としての“リアルな存在”からも解き放たれて新たな芸術性を確立し続けている。美術は社会概念やテクノロジーによって急速に大きく形を変える。
しかし、人は手仕事による表現をやめない。紙や布を支持体とする絵画はデジタルの平面表現に移行するという人もいるが、今現在も多くの作家や美大生がカンバスや紙、石、木、金属にそれぞれの道具を手に向き合っている。いまだ多くの美術大学で素描、デッサンが入学試験として設定されていることを考えてみよう。
デッサンなどの基礎学習は単純な手先だけの反復練習ではない。美術の基礎学習は、ものの見方、考え方、その伝え方の練習である。感覚器、脳、神経、骨格や筋肉……全身を使った入力と出力の練習だといえる。見る→形を理解する→描画する、という一連の作業はデジタル制御のみで可能なのかもしれない。しかし、重要なのは“美”の存在だ。
“美”の創造に到達する道は、外部からの刺激が自分の内部を経由して外部への表現欲求となるまでの道だ。きっとその道は一つではない。美術大学の存在意味とは“美しい”という実体のないものを創り出すための楽な最短ルートを研究することではなく、そのアプローチは無限にあるということを学生に気づかせることにある。
大学でのカリキュラム
美術大学では、芸術領域それぞれの実技と芸術理論についてカリキュラムが用意されている。芸術領域分類は時代や個々の大学により理念が異なるが、基本的には純粋美術領域として、絵画(油絵、日本画、版画、壁画)、彫刻、工芸、(映像やメディアアートが含まれることもある)、応用芸術領域としてデザイン、工芸、建築、メディアアート、映像、ゲーム、といった領域の分類がある。また美術全体に関わる分野として、芸術学、文化財保存学、美術教育学、先端表現などの分野も存在している。
純粋美術と応用芸術(実用性を伴う美)という分類は、現代の美術界ではあいまいだといえるが、多くの大学では技法・材料やその発生時の形態による分類を確保することで、各々の芸術分野における伝統性の高い技法・材料の伝承や、独自表現の尊重とともにそれらが並列につながった表現の多様性をも目指している。大学によっては領域横断や複合授業といった学際的な取り組みも盛んで、横断化、複合化した領域による新しい表現が生まれることも期待される。
美術領域では実技授業が主となることが多い。その領域や専攻別の専門的な実技科目(一部座学もある)が卒業単位数の多くを占める。実技科目では一般的に1〜2年次は基本的な物の見方や技法を学ぶ。入学時までに身につけたデッサン力や構成力などの基礎的な描画力、造形力は必ずその下支えとなっているが、もしかしたらそれは絶対的なものではなくなるかもしれない。そして芸術分野独自の技法・材料や基本的な制作を学び始める頃には、その基礎力の精度をさらに高める努力が必要になる場合や、ときにはあえて否定する選択もあるかもしれない。否定したとしても不必要だったわけではない。自分の武器をそれと知って手放すことは表現者にとってときに避けられないが大きな転機ともなる。
2年次後半〜3年次ではそれぞれの材料の特性やその芸術領域の歴史や特徴を踏まえ、それらが現代の表現や作品を取りまく社会とどうつながるのかを思考し始める。学生はそれらを吸収し個々の考えや好み、素材への想い、つまりは個性というものを、その素材や技法に乗せて独自の表現を模索していく。そのため美術大学では完成作品に対する教員からの一方的な指導だけではなく、途中経過や考え方を学生と対話しながら双方向の授業を進めている。この頃には課題の自由度も増し、自分の表現したいものが遠くの方に垣間見えるかもしれない。
そして4年次、多くの美術大学では卒業時に卒業制作を課している。卒業制作は学部で学んだことの集大成である。積み重ねたことの全てを大作に表現する者。積み重ねたその頂点から見えた気がする別の表現に、全てを捨てて思い切って飛び移ってみる者。卒業制作展には作家の第一歩の気迫がみなぎっていて、その場にいると痛いような空気を感じる。
純粋美術と応用芸術(実用性を伴う美)という分類は、現代の美術界ではあいまいだといえるが、多くの大学では技法・材料やその発生時の形態による分類を確保することで、各々の芸術分野における伝統性の高い技法・材料の伝承や、独自表現の尊重とともにそれらが並列につながった表現の多様性をも目指している。大学によっては領域横断や複合授業といった学際的な取り組みも盛んで、横断化、複合化した領域による新しい表現が生まれることも期待される。
美術領域では実技授業が主となることが多い。その領域や専攻別の専門的な実技科目(一部座学もある)が卒業単位数の多くを占める。実技科目では一般的に1〜2年次は基本的な物の見方や技法を学ぶ。入学時までに身につけたデッサン力や構成力などの基礎的な描画力、造形力は必ずその下支えとなっているが、もしかしたらそれは絶対的なものではなくなるかもしれない。そして芸術分野独自の技法・材料や基本的な制作を学び始める頃には、その基礎力の精度をさらに高める努力が必要になる場合や、ときにはあえて否定する選択もあるかもしれない。否定したとしても不必要だったわけではない。自分の武器をそれと知って手放すことは表現者にとってときに避けられないが大きな転機ともなる。
2年次後半〜3年次ではそれぞれの材料の特性やその芸術領域の歴史や特徴を踏まえ、それらが現代の表現や作品を取りまく社会とどうつながるのかを思考し始める。学生はそれらを吸収し個々の考えや好み、素材への想い、つまりは個性というものを、その素材や技法に乗せて独自の表現を模索していく。そのため美術大学では完成作品に対する教員からの一方的な指導だけではなく、途中経過や考え方を学生と対話しながら双方向の授業を進めている。この頃には課題の自由度も増し、自分の表現したいものが遠くの方に垣間見えるかもしれない。
そして4年次、多くの美術大学では卒業時に卒業制作を課している。卒業制作は学部で学んだことの集大成である。積み重ねたことの全てを大作に表現する者。積み重ねたその頂点から見えた気がする別の表現に、全てを捨てて思い切って飛び移ってみる者。卒業制作展には作家の第一歩の気迫がみなぎっていて、その場にいると痛いような空気を感じる。
美大を目指す皆さんへ
美術の進路を決める場面では“才能”という言葉と、絵や彫刻、またはものを作るのが好き、といったように“好き”という言葉が使われる。
よく「美術の才能がある(ない)」という言葉を聞く。もともと“才”と“能”は別の言葉で“才”は生まれながらに持つ能力で、“能”は技能や力の意味であるという。生まれ持った美術の“才”なんて自分にも他人にも簡単に判断できるものだろうか。意外だが美術教育の現場で“才能”という言葉はあまり聞かない。自分の学生時代、厳しい批評は多かったが、“才能”、特に“才”の有無について言及されたことはないと記憶している。実技の成績がずっとよかったとは言えないが「才能がない」と言われたことはない。一方“能”の方はよく言われた。「もっとデッサン力、色彩の能力を磨きなさい」など。大学ではみなさんの“才”なんて当てにしてはいない。学生がそれぞれの能力を伸ばしてくれることを望んでいる。
また、絵描きをしていると「好きなことを職業にして楽しそうですね」と言われることが多いが、単に“楽しい”、“絵を描くことが好き”というわけではない。作品を創ることはときとして非常に辛い。描くのはもちろん嫌いではないが、今、描いている作品を“好きなもの”にしたいだけで、興味のないものを描くのまで好きなわけじゃない。何でもそうだが、そのジャンルがただ“好き”なだけでうまくいくとは限らない。
“好き”が基準にならないと進路に不安を感じる受験生もいるかもしれないが心配ない。自分の選んだ領域が大好きじゃなくても問題ない。でも“好き”は大事な出発点だ。まず美術に直接関係なくてもいい、“好き”を自分の感覚器官の全てを使って探し、もう一度向き合ってみよう。アニメでも、本でも、食べ物でも、何でもいい。たとえば本。ストーリーが好みで読み始めた本も、よく読むと主人公のセリフに共感していることに気づいたりする。さらに読み込むと、その作家が使う言葉の選択に惹かれていることに気づくかもしれない。さらにさらに読むうちに、もしかしたらその本を読んでいる自分のことが好きなだけとわかって案外がっかりしたりするかもしれない。でもそれでいい。好きなものを突き詰めると何か共通する核のようなものがある。その核にあるのがあなたの現時点での美意識だ。自分の“美”を意識できればどの領域でも表現の形はきっと見つかる。あとはその表現に必要な“能力”の部分を高めて、自分だけの表現を見つける道を歩き出してみてください。
よく「美術の才能がある(ない)」という言葉を聞く。もともと“才”と“能”は別の言葉で“才”は生まれながらに持つ能力で、“能”は技能や力の意味であるという。生まれ持った美術の“才”なんて自分にも他人にも簡単に判断できるものだろうか。意外だが美術教育の現場で“才能”という言葉はあまり聞かない。自分の学生時代、厳しい批評は多かったが、“才能”、特に“才”の有無について言及されたことはないと記憶している。実技の成績がずっとよかったとは言えないが「才能がない」と言われたことはない。一方“能”の方はよく言われた。「もっとデッサン力、色彩の能力を磨きなさい」など。大学ではみなさんの“才”なんて当てにしてはいない。学生がそれぞれの能力を伸ばしてくれることを望んでいる。
また、絵描きをしていると「好きなことを職業にして楽しそうですね」と言われることが多いが、単に“楽しい”、“絵を描くことが好き”というわけではない。作品を創ることはときとして非常に辛い。描くのはもちろん嫌いではないが、今、描いている作品を“好きなもの”にしたいだけで、興味のないものを描くのまで好きなわけじゃない。何でもそうだが、そのジャンルがただ“好き”なだけでうまくいくとは限らない。
“好き”が基準にならないと進路に不安を感じる受験生もいるかもしれないが心配ない。自分の選んだ領域が大好きじゃなくても問題ない。でも“好き”は大事な出発点だ。まず美術に直接関係なくてもいい、“好き”を自分の感覚器官の全てを使って探し、もう一度向き合ってみよう。アニメでも、本でも、食べ物でも、何でもいい。たとえば本。ストーリーが好みで読み始めた本も、よく読むと主人公のセリフに共感していることに気づいたりする。さらに読み込むと、その作家が使う言葉の選択に惹かれていることに気づくかもしれない。さらにさらに読むうちに、もしかしたらその本を読んでいる自分のことが好きなだけとわかって案外がっかりしたりするかもしれない。でもそれでいい。好きなものを突き詰めると何か共通する核のようなものがある。その核にあるのがあなたの現時点での美意識だ。自分の“美”を意識できればどの領域でも表現の形はきっと見つかる。あとはその表現に必要な“能力”の部分を高めて、自分だけの表現を見つける道を歩き出してみてください。
(注)写真が一般的になった時代には職業画家による写真反対の意思表示があった記録もある。当時報道や記録の技術を担った職業画家たちの多くは職を失うこととなった。では絵画、彫刻がなくなったかというと、逆だ。これらの芸術表現は記録、伝達といった義務から解放され、それまで以上に純粋な美を追求して進化することになる。
