何を学ぶ
既存の芸術ジャンルを超えた、多岐にわたる研究/制作分野がある。文芸創作、映画・映像、舞台芸術(演劇・舞踊等)から、アートプロデュースのようなマネジメント関係まで。

森山 直人(もりやま なおと)先生
多摩美術大学/美術学部演劇舞踊デザイン学科/教授
1968年東京生まれ。東京大学大学院総合文化研究科・博士後期課程を単位取得退学。専門は現代演劇、表象文化論だが、批評家としても活動しており、日本の舞台芸術に関する批評や論文を多数発表している。
「芸術系その他」とは?
たったいま、このページを開いたあなたは、何を感じているだろうか?──その他、だって? 芸術って言葉はイメージできるけど、「その他」って、そもそも何のこと?
その他大勢という日本語もあるように、いかにも残りものという感じが否めない「その他」を前にして、いや、本当は「その他」がおもしろいのだと力説してみても、すぐには信じられないかもしれない。だが、このカテゴリーで紹介しようとしている学部・学科・コースは、内容や領域が多種多様なため、こういう名前で分類するしかなかったものばかりなのだ。だから、まずはいったいなぜ「芸術」という領域が、こんなに多様な展開を生んでしまっているのか、という点に注目してもらうほうがいいと思う。おおざっぱに言えば、それはここに集められた大学の新しい研究領域の多くが、日々急速に変化している「現代」そのものを相手にしているからだ。
たとえば、ギリシャ・ローマ神話に登場する女神ヴィーナスは、どんなに時代が変化しても変わることのない〈普遍的な美〉の象徴として、歴史上、多くの芸術家が好んで取り上げてきたテーマである。芸術とはそのような〈普遍的な美〉を体現するものだと、かつてはだれもが信じていた。ところがいまや私たちの生活は、驚くべき速度で変化している。ほんの30年前までは、パソコンもスマホもLINEもYouTubeも存在しない日常が当たり前だったはずなのに、いまではそんな時代があったことさえ思い出せなくなっている。そんな時代に〈美〉や〈芸術〉は、以前と同じように不変の価値を保持したままでいられるのだろうか?
その他大勢という日本語もあるように、いかにも残りものという感じが否めない「その他」を前にして、いや、本当は「その他」がおもしろいのだと力説してみても、すぐには信じられないかもしれない。だが、このカテゴリーで紹介しようとしている学部・学科・コースは、内容や領域が多種多様なため、こういう名前で分類するしかなかったものばかりなのだ。だから、まずはいったいなぜ「芸術」という領域が、こんなに多様な展開を生んでしまっているのか、という点に注目してもらうほうがいいと思う。おおざっぱに言えば、それはここに集められた大学の新しい研究領域の多くが、日々急速に変化している「現代」そのものを相手にしているからだ。
たとえば、ギリシャ・ローマ神話に登場する女神ヴィーナスは、どんなに時代が変化しても変わることのない〈普遍的な美〉の象徴として、歴史上、多くの芸術家が好んで取り上げてきたテーマである。芸術とはそのような〈普遍的な美〉を体現するものだと、かつてはだれもが信じていた。ところがいまや私たちの生活は、驚くべき速度で変化している。ほんの30年前までは、パソコンもスマホもLINEもYouTubeも存在しない日常が当たり前だったはずなのに、いまではそんな時代があったことさえ思い出せなくなっている。そんな時代に〈美〉や〈芸術〉は、以前と同じように不変の価値を保持したままでいられるのだろうか?
何が芸術なのか?
だが、日常生活が、激しい変化の波にさらされるようになったのは実は最近のことではない。よく似た現象は、19世紀半ばの西欧にもすでに生じていた。当時のパリを代表する詩人ボードレールは、〈永遠の美〉が時代と無関係に存在するわけではなく、移ろいゆく時代のなかにも美は存在し得るのだと主張している。だが彼にしても、それから約150年後の世界の変わり方がこれほど大きいとは予想できただろうか。何しろ私たちの住む時代は、地球の裏側とリアルタイムで交信できるような世界なのである。これほど変化が加速したのは、やはり機械文明が飛躍的に進歩し、大衆社会が成立した20世紀以降のことだ。
たとえば私たちは、無数の静止画や動画に囲まれて暮らしている。映像文化の大規模な普及は、まぎれもなく20世紀以降の現象である。写真や映画、アニメーションなどを芸術として扱う学科が増えてきているが、実はそれらが発明された当時、人々はただの機械的な見世物としてしか見ておらず、やがて「芸術」の一部に数えられるようになるとは、夢にも思っていなかった。同じことは、「文学」に対する「マンガ」、クラシック音楽に対するポップ・ミュージックについても言える。
たとえば私たちは、無数の静止画や動画に囲まれて暮らしている。映像文化の大規模な普及は、まぎれもなく20世紀以降の現象である。写真や映画、アニメーションなどを芸術として扱う学科が増えてきているが、実はそれらが発明された当時、人々はただの機械的な見世物としてしか見ておらず、やがて「芸術」の一部に数えられるようになるとは、夢にも思っていなかった。同じことは、「文学」に対する「マンガ」、クラシック音楽に対するポップ・ミュージックについても言える。
テクノロジーと情報環境
このように、当然と思われていた芸術や美の基準に深刻な動揺をあたえるジャンルが台頭してきた背景のひとつには、「複製技術」の進歩による大量生産・消費の問題がある。私たちは、マンガや音楽や映画を、ときには億単位で大量生産した本やメディアで楽しんできた。こうした複製技術が成立していなければ、状況は全く異なっていたはずだろう。『源氏物語』や『枕草子』が、写本でしか伝わらなかったことを考えれば、私たちのありふれた日常が、実は大きな歴史的変化の所産なのだということが分かってくる。
同時にまた、そうした新しいジャンルにおいては、しばしば新しいテクノロジーを媒介にした新しい作り方が可能でもある。現代の私たちは、さまざまなデジタル技術を使って、だれでもアートのようなものを毎日のように生産しているが、そのことは、芸術家とそうでない人びと、芸術作品とそうでないものの区別を、ますますあいまいなものにしている。今日話題になっているChatGPTなどのような生成AI技術は、そうした傾向を一気に加速させている。
作り手と受け手の量的な拡大によって、芸術文化は、メディアや情報ネットワークのなかで、あるひとつの「環境」ともいえる広がりを形成している。そしてそうした「環境」のなかで作品は、ときには巨額の通貨と交換しうる「商品」に変身する。作品と人間の関係、あるいは作品を介した人間同士の関係において、長年の常識が通用しなくなる事態があちこちで生じている。だからこそ、「コミュニケーション」や「マネジメント」といった、作品の外側にある〈関係性〉を指す言葉が、「芸術系その他」のカテゴリーにはしばしば見出されることになる。
同時にまた、そうした新しいジャンルにおいては、しばしば新しいテクノロジーを媒介にした新しい作り方が可能でもある。現代の私たちは、さまざまなデジタル技術を使って、だれでもアートのようなものを毎日のように生産しているが、そのことは、芸術家とそうでない人びと、芸術作品とそうでないものの区別を、ますますあいまいなものにしている。今日話題になっているChatGPTなどのような生成AI技術は、そうした傾向を一気に加速させている。
作り手と受け手の量的な拡大によって、芸術文化は、メディアや情報ネットワークのなかで、あるひとつの「環境」ともいえる広がりを形成している。そしてそうした「環境」のなかで作品は、ときには巨額の通貨と交換しうる「商品」に変身する。作品と人間の関係、あるいは作品を介した人間同士の関係において、長年の常識が通用しなくなる事態があちこちで生じている。だからこそ、「コミュニケーション」や「マネジメント」といった、作品の外側にある〈関係性〉を指す言葉が、「芸術系その他」のカテゴリーにはしばしば見出されることになる。
舞台芸術の教育現場
それでは、いままで述べてきたような、芸術と社会の関係がたえず流動的に変化しつづける状況は、大学のカリキュラムに、どんな形で反映されているのだろうか。大学教育の現場でも、いまでは変化に対する柔軟な感性が求められている。この先は、しばらく私自身の専門領域である舞台芸術にそくして具体的な側面を述べていくことにしたい。
「舞台芸術」という言葉は、演劇やダンス、パフォーマンスや古典芸能など、観客を前にして行われるライブアートの総称である。演劇やダンスというと、きらびやかに着飾った俳優やダンサーが豪華な劇場のステージの上で演技をしたり、踊ったりしているイメージを思い浮かべるだろうが、もともとはどちらも古代の宗教儀礼に起源を持つと言われている芸術である。
近代の劇場制度が整い、照明や音響、舞台装置などの機械化が完備されるようになると、舞台は演出家が、俳優やダンサー、光や音、美術などをひとつにまとめあげる「総合芸術」であることが改めて認識されるようになる。その反面、各要素の専門性が増したことにより職業的な分業も進んでいった。
そうした歴史に対応して、実技系のカリキュラムを持つ日本の演劇学科や舞台芸術学科の多くは、「俳優コース」「舞台美術コース」「照明コース」などのような、タテ割式のコース設定によって、数多くの多彩な才能を創作現場に送り出してきた。
けれども、これほど大規模にメディアテクノロジーが発達した今日では、社会全体のなかに占める演劇やダンスの位置や機能も、以前と同じではありえない。たとえば、近年の舞台芸術において、作品に映像を使用することが日常的に行われるようになっている。
既存の分業にとらわれない別の視点からの「総合性」が新たに必要となっており、次第にそういう状況に対応しようとする動きも起こってきている。
「舞台芸術」という言葉は、演劇やダンス、パフォーマンスや古典芸能など、観客を前にして行われるライブアートの総称である。演劇やダンスというと、きらびやかに着飾った俳優やダンサーが豪華な劇場のステージの上で演技をしたり、踊ったりしているイメージを思い浮かべるだろうが、もともとはどちらも古代の宗教儀礼に起源を持つと言われている芸術である。
近代の劇場制度が整い、照明や音響、舞台装置などの機械化が完備されるようになると、舞台は演出家が、俳優やダンサー、光や音、美術などをひとつにまとめあげる「総合芸術」であることが改めて認識されるようになる。その反面、各要素の専門性が増したことにより職業的な分業も進んでいった。
そうした歴史に対応して、実技系のカリキュラムを持つ日本の演劇学科や舞台芸術学科の多くは、「俳優コース」「舞台美術コース」「照明コース」などのような、タテ割式のコース設定によって、数多くの多彩な才能を創作現場に送り出してきた。
けれども、これほど大規模にメディアテクノロジーが発達した今日では、社会全体のなかに占める演劇やダンスの位置や機能も、以前と同じではありえない。たとえば、近年の舞台芸術において、作品に映像を使用することが日常的に行われるようになっている。
既存の分業にとらわれない別の視点からの「総合性」が新たに必要となっており、次第にそういう状況に対応しようとする動きも起こってきている。
舞台芸術系学科で学ぶこと
多摩美術大学の「演劇舞踊デザイン学科」には、「演劇舞踊コース」と「劇場美術デザインコース」の2つのコースが設けられている。前者は、俳優やダンサー、演出家・振付家などを、後者は、舞台美術家、舞台照明デザイナー、舞台衣裳デザイナーなどを養成する目的で設置されている。
だが、この学科の特徴は、それぞれの専門性を基礎から応用へと積み上げていくことだけでなく、さまざまな芸術的方向性を持った「上演作品(=舞台作品)」を、両コースが協働して総合的に創作していくところにある。
たとえば、「演劇舞踊コース」では、他大学では別々のコースに分かれていることのある「演劇」と「舞踊」を、「身体表現」をキーワードにした同じカリキュラムのなかで学んでいく。20世紀から21世紀にかけての「上演芸術(=舞台芸術)」が、従来までのカテゴリーには収まり切らない横断的な表現が増えてきたことが反映されているのだ。「劇場美術デザインコース」は、1年次に、舞台美術、照明、衣裳などの基礎的スキルや造形力、2年次には、具体的な戯曲などをモチーフにしたデザイン力を伸ばしていく。
けれども3年次の上演制作実習から4年次の卒業制作にかけては、両コースが一つの場に集まり、プレゼンテーションやディスカッションを重ねながら、学生自身の表現を、時間をかけて「作品」へと結実させていくのである。そうした「協働」がスムーズに進むように、1年次から両コースが合同参加する授業を設ける工夫もされている。美術・デザイン系の学生も身近にいる学内環境のなかでは、他分野からの刺激を受けることも少なくない。
だが、この学科の特徴は、それぞれの専門性を基礎から応用へと積み上げていくことだけでなく、さまざまな芸術的方向性を持った「上演作品(=舞台作品)」を、両コースが協働して総合的に創作していくところにある。
たとえば、「演劇舞踊コース」では、他大学では別々のコースに分かれていることのある「演劇」と「舞踊」を、「身体表現」をキーワードにした同じカリキュラムのなかで学んでいく。20世紀から21世紀にかけての「上演芸術(=舞台芸術)」が、従来までのカテゴリーには収まり切らない横断的な表現が増えてきたことが反映されているのだ。「劇場美術デザインコース」は、1年次に、舞台美術、照明、衣裳などの基礎的スキルや造形力、2年次には、具体的な戯曲などをモチーフにしたデザイン力を伸ばしていく。
けれども3年次の上演制作実習から4年次の卒業制作にかけては、両コースが一つの場に集まり、プレゼンテーションやディスカッションを重ねながら、学生自身の表現を、時間をかけて「作品」へと結実させていくのである。そうした「協働」がスムーズに進むように、1年次から両コースが合同参加する授業を設ける工夫もされている。美術・デザイン系の学生も身近にいる学内環境のなかでは、他分野からの刺激を受けることも少なくない。
幅広い視野と柔軟な感性
いずれにせよ、ここに紹介されているさまざまな学科やコースは、どれも変化する現代に対応する新しい領域である以上、最初から正しいと分かっている方法などありえない。だからといって、人はゼロからものを生み出すことができない以上、幅広い視野と柔軟な感性に対する関心が、どうしても必要となるだろう。
決まったレールの上をそのまま歩くのではなく、レール自体を自分で作りだす知的な貪欲さが、ぜひとも必要になる。その上で、「芸術」とは何か、それは「社会」といまどのように関係しているのかを、粘り強く考え抜こうとする意志を持つ──それもまた楽しいものである。
決まったレールの上をそのまま歩くのではなく、レール自体を自分で作りだす知的な貪欲さが、ぜひとも必要になる。その上で、「芸術」とは何か、それは「社会」といまどのように関係しているのかを、粘り強く考え抜こうとする意志を持つ──それもまた楽しいものである。
